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米教科書「歴代朝鮮王朝は中国の一部」、韓国団体が抗議 ← それ事実です

https://www.recordchina.co.jp/b874301-s25-c30-d0193.html
2021年3月31日、観察者網は、「高句麗は中国の一部」とする米国の教科書に対し、韓国の市民団体がクレームをつけたと報じた。

記事は、韓国・聯合ニュースの31日付報道を引用。米国の出版社マックグロー・ヒルが出版した高校生向け大学教育先修プログラム(AP)の世界史教科書内に記載された地図で、高句麗の領土が中国の漢王朝の領土として示されていたと紹介。別のページでは新羅について「唐王朝の属国であり、668年に唐が撤退した後で朝鮮半島を統一した」との記載していると伝えた。

また、別の出版社「バロン」が出版した同様の世界史教科書においても、高麗が元王朝の領土として、李氏朝鮮が清王朝の領土としてそれぞれ表示されていたとしている。

(ここまで)


事実が記述されたらクレームとは、さすがは歴史捏造の常習犯です。


高句麗も新羅も唐の「郡王」に任命されていたのは歴史的事実で、歴代中華帝国において「郡王」は内臣に授与されるものです。


つまり、高句麗も新羅も唐の内臣であることを自ら認めていたということです。


高麗が元の領土だったのは、高麗王が元の地方政府「征東行省」の長官を兼任していたことから明らかですし、李氏朝鮮の貨幣鋳造権、外交権等は清にあったことからも、朝鮮が清の領土であったことは明白です。





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| 朝鮮史 | 22時01分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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これがホントの性奴隷『第5種補給品』 ~韓国による慰安婦強制連行~

1950~53年の朝鮮戦争当時、韓国は韓国の売春婦、韓国軍が占領地から強制連行した北朝鮮女性や北朝鮮軍の女性兵士・看護婦を慰安婦として、韓国軍及び国連軍への性的サービスを提供させた。


これら慰安婦は『第五種補給品』と名付けられ、補給物資の一つという扱いであった。


彼らはドラム缶のような鉄製の缶に1人ずつ入れられ、トラックに積み込まれて、各戦線に送られ、各地で性的サービスの提供に従事した。


『第五種補給品』という名称からして、韓国が慰安婦たちを人間ではなくモノ扱いしていたことは明らかであり、且つ性的サービスを強要されていた北朝鮮領内から強制連行された女性たちや北朝鮮軍の捕虜たちこそは、性奴隷以外のなにものでもない。





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| 朝鮮史 | 22時24分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「名将」李舜臣の戦歴 全

1.緒戦の活躍と日本側の対応

2.休戦交渉の決裂

3.なすところなかった慶長の役

4.講和成立後の攻撃そして返討ち

5.エピローグ


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| 朝鮮史 | 04時32分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「名将」李舜臣の戦歴 その5 ~エピローグ~

 以上が韓国で「名将」と称されている李舜臣の朝鮮征伐における全戦歴である。



 李舜臣は朝鮮征伐のほぼ全期間を通じて、朝鮮水軍の司令官として活動していたが、そのうち活躍したのは日本側に備えのなかった緒戦のうちのみで、朝鮮征伐の殆どの期間即ち文禄の役の半ば以降慶長の役の休戦協定が成立するまで殆ど全くといって良いほどに戦いの主導権は愚か活躍すらできなかったというのが歴史の真実である。


 最後の最後、それも休戦協定成立後になって、小西行長の撤退を妨害し、小西行長の救援に駆けつけた島津義弘等の軍を激戦の末退却させることができたことは、ある意味戦闘には勝利したと言えるかもしれない。


 しかし、日本側にしてみれば、本来の目的は小西行長の救援であったわけで、救援軍はその目的を達成し、且つ救援軍自身も無事撤退に成功しているから、作戦としては明・朝鮮軍が失敗、日本軍が成功したということになり、更に、この戦いは休戦協定成立後のものであるから、朝鮮征伐全体の戦況には全くと言って良いくらい関係がない。




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| 朝鮮史 | 23時08分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「名将」李舜臣の戦歴 その4 ~講和成立後の攻撃そして返討ち~

 古今島に退却していた明・朝鮮水軍は、順天を守備していた日本軍撤退の動きを察知すると、これを妨害すべく再び進出して海上封鎖を実施した。そのため、順天を守備していた諸侯小西行長が明水軍の総兵陳璘と交渉して、撤退の際攻撃しない旨の約束を取り付けたにもかかわらず、総兵陳璘の指揮下にあった李舜臣がこれに断固反対し、且つ日本軍の撃滅を強く主張したため、明・朝鮮水軍は撤退を取りやめて海上封鎖を継続した。



 その頃、泗川から無事撤退した諸侯島津義弘、立花宗茂等は、小西行長が海上封鎖によって撤退を妨害されていることを知ると、急遽水軍を編成して救援に向った。救援軍の接近の報を受けた明・朝鮮水軍は海上封鎖を解除して、11月18日、露梁海峡で救援軍を迎え撃った。


 戦闘は露梁海峡を通過しようとした救援軍に対する待伏せ攻撃で始まったため、救援軍は苦戦に陥り、遂に露梁海峡を突破せず退却するに至ったが、明・朝鮮水軍も副将(協守副総兵官)鄧子龍や李舜臣が乱戦の中で戦死したのを始め、多くの損害を出したため、退却する救援軍を追撃することも、海上封鎖を継続することも適わなかった。そのため、この海戦の翌日、小西行長は無事釜山への撤退に成功している。



 これが韓国で「露梁大捷」と称される戦いであるが、こうして見ると、戦闘に限定しても大勝利にはほど遠いことがわかり、また、李舜臣は日本軍の流れ弾に当って戦死したとされているが、これもウソで、「乱中雑録」によれば、船尾に伏せた銃兵の一斉射撃を受けて戦死している。




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| 朝鮮史 | 08時40分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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