米教科書「歴代朝鮮王朝は中国の一部」、韓国団体が抗議 ← それ事実です

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| 朝鮮史 | 22時01分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑
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| 朝鮮史 | 22時24分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑
| 朝鮮史 | 04時32分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑
以上が韓国で「名将」と称されている李舜臣の朝鮮征伐における全戦歴である。
李舜臣は朝鮮征伐のほぼ全期間を通じて、朝鮮水軍の司令官として活動していたが、そのうち活躍したのは日本側に備えのなかった緒戦のうちのみで、朝鮮征伐の殆どの期間即ち文禄の役の半ば以降慶長の役の休戦協定が成立するまで殆ど全くといって良いほどに戦いの主導権は愚か活躍すらできなかったというのが歴史の真実である。
最後の最後、それも休戦協定成立後になって、小西行長の撤退を妨害し、小西行長の救援に駆けつけた島津義弘等の軍を激戦の末退却させることができたことは、ある意味戦闘には勝利したと言えるかもしれない。
しかし、日本側にしてみれば、本来の目的は小西行長の救援であったわけで、救援軍はその目的を達成し、且つ救援軍自身も無事撤退に成功しているから、作戦としては明・朝鮮軍が失敗、日本軍が成功したということになり、更に、この戦いは休戦協定成立後のものであるから、朝鮮征伐全体の戦況には全くと言って良いくらい関係がない。
| 朝鮮史 | 23時08分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑
古今島に退却していた明・朝鮮水軍は、順天を守備していた日本軍撤退の動きを察知すると、これを妨害すべく再び進出して海上封鎖を実施した。そのため、順天を守備していた諸侯小西行長が明水軍の総兵陳璘と交渉して、撤退の際攻撃しない旨の約束を取り付けたにもかかわらず、総兵陳璘の指揮下にあった李舜臣がこれに断固反対し、且つ日本軍の撃滅を強く主張したため、明・朝鮮水軍は撤退を取りやめて海上封鎖を継続した。
その頃、泗川から無事撤退した諸侯島津義弘、立花宗茂等は、小西行長が海上封鎖によって撤退を妨害されていることを知ると、急遽水軍を編成して救援に向った。救援軍の接近の報を受けた明・朝鮮水軍は海上封鎖を解除して、11月18日、露梁海峡で救援軍を迎え撃った。
戦闘は露梁海峡を通過しようとした救援軍に対する待伏せ攻撃で始まったため、救援軍は苦戦に陥り、遂に露梁海峡を突破せず退却するに至ったが、明・朝鮮水軍も副将(協守副総兵官)鄧子龍や李舜臣が乱戦の中で戦死したのを始め、多くの損害を出したため、退却する救援軍を追撃することも、海上封鎖を継続することも適わなかった。そのため、この海戦の翌日、小西行長は無事釜山への撤退に成功している。
これが韓国で「露梁大捷」と称される戦いであるが、こうして見ると、戦闘に限定しても大勝利にはほど遠いことがわかり、また、李舜臣は日本軍の流れ弾に当って戦死したとされているが、これもウソで、「乱中雑録」によれば、船尾に伏せた銃兵の一斉射撃を受けて戦死している。
| 朝鮮史 | 08時40分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑
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