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黒海ドイツ人強制連行

黒海ドイツ人は南ウクライナ在住のドイツ人で、エカテリーナ2世の植民政策により、1800年頃からドイツ人の入植が促進された。


ソ連成立後、黒海ドイツ人は農業集団化、スターリンによる大粛清によって、国外、シベリアや中央アジアへ追放されたり、強制収容所送りになった。


1941年6月に独ソ戦が始まると、スターリンはソ連西部の全てのドイツ系住民の東方への強制連行を決定したが、ドイツ軍とその同盟軍の進撃が余りにも早かったため、大半のドイツ系住民は強制連行を免れた。それでも、ドニエプル川東方の約10万人がNKVD(内務人民委員部)によって、シベリア、中央アジアへ強制連行された。


強制連行を免れた黒海ドイツ人たちは、その後のソ連軍の反攻から逃れるべく、多くがドイツ軍とともに西方へ避難し、約30万人がソ連からの脱出に成功したが、ドイツそのものがソ連軍を含む連合軍に占領された結果、約20万人がソ連に強制送還され、その殆どが強制収容所送りになった。


Bundesarchiv_Bild_183-W0402-500,_Flüchtlingstreck_in_Richtung_Deutschland
Bundesarchiv, Bild 183-W0402-500 / Dissmann / CC-BY-SA 3.0, CC BY-SA 3.0 de, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=5371147による



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| ソ連・ロシアの侵略と圧政 | 22時06分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ヴォルガ・ドイツ人強制連行

ヴォルガ・ドイツ人は1700~1800年代にロシア帝国の植民政策によってヴォルガ川流域に入植したドイツ人とその子孫たちのことで、1900年頃には約200万人いた。


Volga-Germans-US.jpg


ロシア革命後の1924年、ロシア共和国内のヴォルガ・ドイツ自治共和国が設立されたが、1930年代後半のスターリンの大粛清により、多くのドイツ人がシベリア、中央アジアへ追放され、1941年6月に独ソ戦が始まると、8月にヴォルガ・ドイツ自治共和国は廃止され、ドイツ系住民のほぼ全員がシベリア、カザフスタン等へ強制連行された。


ニキータ・フルシチョフによるスターリン批判の後、チェチェン人カルムイク人等が帰還を認められたのに対し、ヴォルガ・ドイツ人には1965年まで認められず、ソ連崩壊後はヴォルガ・ドイツ人の国外移住が断続的に続いている。



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| ソ連・ロシアの侵略と圧政 | 23時45分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ブルガリア侵攻

ブルガリアは第二次大戦に枢軸国として参加したが、その目的はルーマニアとの関係において不利を蒙らないようにするためであり、そのため、1941年6月に独ソ戦が始まっても、東部戦線に参戦せず、ソ連との国交も維持した。


1944年に入って戦況がドイツ側に不利なことが明らかになって来ると、ブルガリアは枢軸国から離脱すべく連合国と接触したものの、状況は芳しくなく、そうこうしているうちに、9月5日、ルーマニアを席巻したソ連軍がブルガリアに侵攻、ブルガリアは無抵抗で降伏した。


9月9日には共産主義者によるクーデターが発生し、以後対独戦に参加して、ドイツ降伏まで戦い続けた。


1946年、ブルガリアは国民投票を実施、その結果王政が廃止され、共産主義国家「ブルガリア人民共和国」が成立した。



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| ソ連・ロシアの侵略と圧政 | 22時19分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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トランスニストリア戦争 ~「沿ドニエストル共和国」の分離独立~

1991年8月に独立宣言したモルドバは、すぐさま独ソ不可侵条約の秘密議定書の無効を宣言し、ソ連軍の領内からの退去を要求した。


にもかかわらず、ソ連軍(崩壊後ロシア軍)14,000人はトランスニストリアに居座り続け、1992年、モルドバが国軍を創設すると、駐留ロシア軍は現地志願者8,000人に軍事訓練を施し、武器を供与した。更にロシアから義勇兵6,000がトランスニストリアに入った。


1992年5月、ロシア人義勇兵の集団がドゥサベリの警察署を襲撃したため、モルドバは鎮圧のため軍を投入、これにロシアが即座に反応して軍の増派を決定した。


6月、モルドバ警察がロシア軍の少佐を破壊活動容疑で逮捕すると、「沿ドニエストル」民兵が警察署を襲撃し、ここから戦闘は一気に激化、戦況はロシア軍の支援を受けた「沿ドニエストル」側の優勢のうちに推移し、7月21日、ロシアとモルドバとの間で休戦協定が成立した。


以後、「沿ドニエストル共和国」は似たような境遇にある南オセチア、アブハジア、ナゴルノ・カラバフとともに「民主主義と民族の権利のための共同体」を構成して、ロシアとの連携を強化している。



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| ソ連・ロシアの侵略と圧政 | 22時21分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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トランスニストリア(沿ドニエストル)の「独立」宣言 ~「沿ドニエストル共和国」分離独立 その1~

ドニエストル川東岸のトランスニストリア(沿ドニエストル)は歴史的にモルドバ(ベッサラビア)に属しておらず、ドニエストル川西岸がルーマニア系のモルドバ人で占められていたのに対し、東岸はロシア人、ウクライナ人が多数を占めていた。


トランスニストリアはソ連統治下においてモルダビア共和国に編入されていたため、ペレストロイカの進展により、ルーマニア-モルダビア間の国境が部分的に開放され、モルダビア共和国が公用語をロシア語からモルドバ語に変更する等自立的傾向を見せ始めると、トランスニストリアのロシア人等はモルダビアとルーマニアとの統一を懸念し、モルダビアのソ連からの独立に反対する姿勢を鮮明にするようになった。


1990年6月、モルダビア共和国がソ連からの主権回復を宣言すると、トランスニストリアのロシア系住民も、9月にモルダビアからの「独立」を宣言、「沿ドニエストル共和国」と称した。


1991年8月、ソ連で発生した保守派のクーデターが失敗すると、モルダビアは独立を宣言し、国名を「モルドバ共和国」とした。



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| ソ連・ロシアの侵略と圧政 | 22時29分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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