ソ連軍前線の後方地域で起きていたこと(1944~45年)
1944年6月のバグラチオン作戦以降、ソ連軍は破竹の進撃を続け、1945年1月に入ると、①ポーランドをソ連支配下に置く、②西側連合軍より先にベルリンを占領することを目的として、強行軍に次ぐ強行軍を続けたため、ソ連軍占領地が急速に拡大した。

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バグラチオン作戦
広大なソ連軍占領地域には、NKVD(内部人民委員部)という労農赤軍(ソ連軍)とは別組織で、ソ連軍に配属されていても、ソ連軍の指揮命令系統には属さず、建前としてスターリンに直属する武装部隊が展開した。
スターリンによれば、NKVDは「占領地域に見受けられるあらゆる不審分子の処置に不可欠なもの」で、自動火器、軽戦車、トラック、馬車等2~3線級の装備を有していた。
スターリン(画像引用元)
ここで登場した「不審分子」とは、強盗などの犯罪者の外、後方に取り残されたドイツ軍敗残部隊、現地人の反ソ武装勢力、ソ連軍脱走兵、そしてNKVDが「対独協力者」や「反革命」と「認定」した現地人等のことである。
前線の後方に取り残されたドイツ軍敗残部隊は多くの小グループに分れて西への逃走を試み、ソ連軍脱走兵たちは出身地や国外脱出を目指し、現地人の反ソ武装勢力は現地に留まって食料や武器弾薬確保のために待伏せし、補給部隊や個々のソ連兵を襲撃した。
ソ連兵たちは占領地域で掠奪暴行放火殺人の限りを尽し、野戦憲兵としての役割を持つNKVDはこれを殆ど取り締まらず、それどころか、あるNKVD司令官によれば、「いくつかのNKVD部隊において、大多数の将兵が軍務に専念せず、掠奪品の収集に熱中している」有様であったため、現地人の反感を買い、多くの人々が反ソ武装勢力に参加した。
このように軍紀が弛緩し切っていたため、ソ連兵とNKVD兵間やソ連兵同士の抗争も多発した。
いくつか例を挙げると、
1945年2月初、第1白ロシア方面軍所属の親衛戦車旅団長で「ソ連邦英雄」称号を持つゴローレフ大佐は、道路上で交通渋滞を整理していたところ、泥酔した兵士たちによって射殺された。
2月14日、ドイツによる強制労働に従事していたロシア人女性の集団がソ連軍によって解放され、ロシアに後送される途中に一時収容されていた村落を、少尉指揮する1中隊が包囲し、NKVD警備兵たちを射殺した上、組織的強姦に及んだ。
26日、将校3人が兵站宿舎に無断で入り、NKVD警備隊長ソロヴィヨフ少佐が制止しようとしたところ、1人の少佐が「おれたちは前線から帰還したばかりで、女が欲しいんだ」と言い捨てて、宿舎の女性たちを襲った。
27日、戦車隊の中尉が穀物収穫中の現地人女性たちに近づき、そのうちの1人と二言三言話した後、「もっとそばに来い」と要求したところ、その女性が拒否したため、中尉はその女性を拳銃で射殺した。
ポーランド国内に駐在しているNKVD警備司令部の近くに、当該司令部で働く100人以上の女性たちの宿舎があったが、3月5日深夜、第3親衛戦車軍の将兵60人が酩酊状態で宿舎に侵入し、女性たちに襲い掛かった。
事態を聞きつけて駆け付けた警備隊長が戦車兵たちに「出て行け」と命令したが、戦車兵たちは警備隊長を銃で脅したため、戦車兵とNKVDの間で乱闘になった。
上述の如き有様であるから、脱走兵も続出し、また脱走かどうかわからないケースも多く、任務に出動してそのまま消息を絶ってしまったり、いつの間にか姿を消していたということもあった。
1945年4月8日付の第1白ロシア方面軍の報告書を見てみよう。
「相変わらず多くの兵士が後方地域をうろつき、原隊から分遣されたと称しているが、実際には脱走兵であって、掠奪・窃盗・暴行を働いている。第61軍担当正面で最近600人以上の脱走兵が逮捕された。正当な用向きのもの、掠奪目的のものも含めて、軍関係者の馬車や車両であらゆる道路が渋滞している。彼らは馬車を街路や納屋に置き、めぼしい物品を探して集積所やアパートの周辺をうろつきまわる。もはや赤軍の一員とはとても見えない将兵が多い。正規の軍装からひどく逸脱した服装が見逃されている。兵士と将校、兵士と民間人の識別が困難になっている。上官への抗命の危険な事例が多発している。」
以上から、前線後方のソ連軍占領地域は、治安が回復されている状態にはほど遠く、むしろ混沌(カオス)と呼んで差し支えない状態であったことがわかる。

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| 第二次大戦前後の歴史 | 22時27分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑