| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

韓国の対馬侵奪企図

 1949年1月17日、李承晩は連合軍総司令部 (GHQ) に対し、竹島、波浪島と対馬について、「歴史的にこの島は韓国の領土であり、日本によって強制的、不法に占領された」と主張し、日本からの割譲を要求したが、GHQは「根拠がない」として、これを拒否した。


 2005年3月18日、韓国慶尚南道馬山市議会は、島根県議会の「竹島の日」に対抗すると称して、対馬の「領有権確立を目的」として「對馬島の日」条例を在籍議員30人のうち出席議員29人全員の賛成で可決した。

 この馬山市の妄動に対し、対馬市議会の波田政和議長は2006年10月6日、馬山市議会に『對馬島の日』条例の廃止措置を要請したが、馬山市議会は「対応する価値がない」として条例を廃止しないことを明らかにした。


 2010年9月、韓国議員37名が、「日本が不法に強制占領している対馬を早く返還させるための議員連盟」を結成した。





歴史ランキング
スポンサーサイト



| 歴代朝鮮対外侵略史 | 01時18分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

朝鮮賊の満州侵入 その3 ~朝鮮人、大挙して満州へ侵入~

 定界碑の設置と琿春協領による管理強化によって、朝鮮賊の満州への侵入は止んだ。しかし、清がアヘン戦争で敗れ、太平天国革命が始まる頃から、再び朝鮮賊の侵入が始まる。


 1847年8月、咸鏡道鏡城府防垣鎮卒宋得哲とその女婿金光云等が満州に侵入し、満人1人を殺害して物資を強奪した。

 1860年8月、朝鮮人明徳成、鄭允化等が満州に侵入して旗兵を殺害。


 そして1867年頃から、李氏朝鮮の悪政と飢饉を原因として、主として咸鏡道の朝鮮人が大量に満州へ侵入し、現地の土地を勝手に占拠して開墾し始めている。


 1883年4月、吉林琿春招墾総局と敦化県が慶源・会寧・鐘城・隠城府に対し、図們江以北・以西に侵入して土地を占拠開墾している朝鮮人の刷還を要求したところ、7月、李氏朝鮮は「其の所墾の土地は土門・豆満両江の間にして即ち土門江の南なり」と称して、図們江以北の「領有権」を主張した。


 1889年7月19日、鐘城・会寧府が吉林において占墾する朝鮮人から徴税していたため、直隷総督(直隷省長官、文正二品)李鴻章がこれを禁ずるよう朝鮮に命じ、朝鮮はこれを受諾している。


 1890年7月14日、清が占墾朝鮮農民に対して辮髪させ、清の戸籍に編入していることを、朝鮮督弁交渉通商事務閔種黙が清総理交渉通商事宜袁世凱に「不当」としてやめるよう要求したものの、袁世凱は、1881年に総理各国事務衙門より督弁交渉通商事務金允植に占墾朝鮮人の刷還を命令したにもかかわらず、朝鮮が未だ刷還しないため実施したものであるから停止不可と回答している。


 清が義和団の乱に敗れて間もない1902年、李氏朝鮮が図們江北を奪取すべく李範允を「北辺間島管理使」に任命して図們江北へ派遣、李範允は「着任」すると、占墾朝鮮人から税を徴収し、「自衛団」や「私砲隊」を組織して武装し、清の官吏の職務遂行を妨害して満人や漢人を殺害し暴動を起したため、吉強軍の討伐を受け、李範允は大敗して逃亡した。こうして、李氏朝鮮による図們江北侵奪企図は失敗に終った。



歴史ランキング

| 歴代朝鮮対外侵略史 | 00時41分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

朝鮮賊の満州侵入 その2 ~定界碑設置~

 朝鮮賊の満州侵入は、清が明を滅ぼし(1644年)、大挙して漢土に移り住んだ頃から活発化しており、以下主なものを列挙しておく。


 1655年9月、慶源府(李氏朝鮮が咸鏡北道北端に設置した北侵拠点の一)哨官(下級軍官)蔡允立率いる朝鮮兵90人が材木を盗むべく潜に満州へ越境して木を切っていたところ満人2人と遭遇、朝鮮兵が2人を殺害してその連れていた牛を盗んだため、清の使者呉拝が朝鮮に犯人の処罰を要求、朝鮮はこれに従い蔡允立を処刑した。

 1690年9月、咸鏡道民十余人が満州に侵入し、満人を射殺してその採取した人参を奪った。

 1704年2月、慶源阿山堡の民金有一等が満州に侵入し、満人3人を殺害してその財貨を強奪した。

 1710年11月、渭原(平安北道)の民李万成、李万枝、李俊元、李先義、李俊建等が夜陰に乗じて満州に侵入し、採参の幕中に入り、満人5人を撲殺して人参を強奪した。満人1人が脱出に成功し、仲間20人とともに渭原に至り、「大国人5名本部民のために殺さる。」と唱言し、巡邏将高汝岡を捕えて犯人の引渡しを要求した。これに対し、渭原郡守李後悦がこれら満人たちに賄賂を贈ったため、満人たちは引揚げている。


 1712年、度重なる朝鮮賊の満州への侵入に対処するため、清は李氏朝鮮軍官李義復、趙台相等立会の下、清と朝鮮との境界鴨緑江、図們江の上流の境界を明確にすることを目的として江源を調査し、5月15日、長白山に定界碑を設置し、更に1714年には琿春(図們江北岸)に協領(吉林将軍(吉林省軍管区司令官、武従一品)隷下の管区)を設置して、この地域の管理を強化している。



歴史ランキング

| 歴代朝鮮対外侵略史 | 01時04分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

朝鮮賊の満州侵入 その1 ~前史~

 延辺朝鮮族自治州は、満州は吉林省の北朝鮮との国境沿いにある地方政府で、その名の通り「朝鮮族」の多いところ(人口の6割は漢族)で、韓国では「延辺朝鮮族自治州は韓国固有の領土」と主張する人が多いが、朝鮮族は初めからこの地にいたわけではない。


 そもそも新羅、高麗の領域はほぼ現在の韓国に相当し、その北方は女真やウリャンハといった異民族の領域であった。李氏朝鮮も同様で、李氏朝鮮はこの地域に「平安道」や「咸鏡道」という行政区を設定したものの、実際にはいくつかの北侵拠点をかろうじて保持していたに過ぎず、この状況は、女真が清を建国して、明を征服する頃まで続いた。


 さて、清による明征服後、満州は封禁の地として、女真人以外の入境が禁止され、且つ女真人の多くは満州から漢土に移った。「平安北道」、「咸鏡北道」と満州との境界付近における朝鮮人の活動が活発化したのはこの頃以降のことである。



歴史ランキング

| 歴代朝鮮対外侵略史 | 00時59分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

朝鮮賊の満州侵入 全






歴史ランキング

| 歴代朝鮮対外侵略史 | 00時58分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT