延辺(間島)朝鮮共産党暴乱
スヴォボーフォヌイ朝鮮人暴乱の後、延辺(間島)における朝鮮人の「抗日」活動は低調となったが、その間、朝鮮共産党員をはじめとする共産主義者の満州への不法侵入が続いたため、共産主義者による活動が活発化した。
しかし、民族派との抗争や共産党内の内紛に忙しく、「抗日」運動そっちのけだったので、比較的平穏な状況が続いた。
1930年、コミンテルンの指示により、満州の朝鮮共産党は中国共産党に吸収されることになった。そこで、朝鮮共産党は中国共産党へ忠誠を示すことを目的として、日本と奉天軍閥に対する武装蜂起を計画して、満州省委から承認を得た。
1930年5月30日、朝鮮共産党が延吉、竜井等延辺の主要都市や鉄道沿線で一斉蜂起、官庁、鉄橋、電力企業等を襲撃した。続いて7月31日、敦化で暴動を起し、暴動は以後1年以上に亘って延辺各地で断続的に続き、中国人・朝鮮人富裕層100人以上が朝鮮人暴徒によって殺害された。
これに対して、日本軍・警察と奉天軍閥が鎮圧のために出動し、翌31年春までに鎮定した。
朝鮮共産党を吸収した中国共産党は、1932年に満州国が建国されると東北人民革命軍を、36年には東北抗日聯軍を編成したが、その活動内容はといえば、民間人からの掠奪、民間人拉致・殺害、民家への放火等匪賊そのものであった。
1939年から関東軍・満州警察が掃討作戦を本格化させ、1941年までに満州からその勢力を一掃した。残存勢力はソ連へ逃亡した。

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| 歴代朝鮮対外侵略史 | 22時24分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑