| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

モンゴル侵攻(1370-1424) その2 ~永楽帝の侵攻~

 1402年、靖難の変で明の帝位を簒奪した燕王朱棣(永楽帝)が、周辺諸国への侵奪野心を露にし、1405年には南洋での示威行動に着手、1406年にはベトナムを侵略し、次に北方を標的と定めた。


 1409年、淇国公丘福、武城侯王聡、同安侯火真、靖安侯王忠、安平侯李達率いる明軍10万がモンゴルへ侵攻して大敗し、五将軍は全員戦死した。


 1410年、前年の惨敗を受けて、永楽帝は自ら50万の大軍を率いてモンゴルへ侵攻し、まず西へ逃れたオルジェイ・ティムール・ハーンをオノン河で破り、返す刀でアルクタイの軍を興安嶺で撃破した。この結果、オルジェイ・ティムール・ハーンはオイラートによって殺害され、アルクタイは明に降伏した。


 1414年、明の侵攻により大打撃を受けたモンゴルに代って勢力を増大させたオイラートを討つべく、永楽帝率いる50万の大軍がモンゴルへ侵攻、フラン・フシウン(ケルレン河とトラ河の分水嶺)でオイラート軍と交戦して、オイラートに大打撃を与えたものの、明軍も大損害を出したため、追撃を断念して撤退した。


 オイラートが打撃を受けている間に、今度はモンゴルが強大となったため、1422年、永楽帝がモンゴルへ侵攻するも、アルクタイは既に逃げた後で、その所在を把握できず帰途に就いた。その途中、興安嶺の東側に出て、ウリヤンハの本拠を襲撃し、これを殲滅した。


 1423年、永楽帝率いる明軍がアルクタイを捕捉撃滅すべくモンゴルに侵攻したが、アルクタイを発見できず撤退した。


 1424年、永楽帝率いる明軍がモンゴルへ侵攻し、アルクタイがネメルゲン河の畔に逃げたとの報を得て、ネメルゲン河畔へ急行したものの、アルクタイは逃げ去った後であり、周辺を捜索してもアルクタイ等を発見できなかったため撤退した、その途中永楽帝は死去した。


 これ以後、明がモンゴルへ大規模侵略することはなくなった。






歴史ランキング
スポンサーサイト



| 歴代中華帝国対外侵略史 | 09時40分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

モンゴル侵攻(1370-1424) 全





歴史ランキング

| 歴代中華帝国対外侵略史 | 01時55分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

モンゴル侵攻(1370-1424) その1 ~明初~

 1368年、明の太祖朱元璋が大将軍徐達を総司令とする北伐軍を派遣すると、元は大都を捨てて北走し、上都、更に応昌府(ダライ・ノール湖畔)へと逃れた。


 1370年5月、左副将軍李文忠率いる明軍が居庸関からモンゴルに侵攻し、応昌府を包囲してこれを攻略した。皇太子アユル・シリダラは数十騎を引き連れてカラコルムへ逃走した。


 1372年大将軍徐達率いる明の大軍がモンゴルへ侵攻し、逃げるモンゴル軍を追ってカラコルムに達したところで、河南王ココ・ティムール率いるモンゴル軍主力と交戦して大敗した。


 以後、モンゴルが反攻に転じ、一時は山西北部を回復したものの、1375年にココ・ティムールが、1378年にアユル・シリダラが相次いで死去したため、反攻は頓挫した。


 1380年、西平侯沐英率いる明軍が霊州から黄河を渡り、賀蘭山(南モンゴル内)を経て、沙漠を渡ってカラコルムに侵攻し、国公トゴチ、平章政事オルジェイ・ブカ等を捕えた。


 1381年、大将軍徐達、右副将軍傳友徳率いる明軍が全寧(シラムレン河流域)地方へ侵攻した。


 1388年、永昌侯藍玉、延安侯唐勝宗、武定侯郭英等率いる明軍がブイルノールを急襲してモンゴル軍を大破し、太尉マンツ以下数千を殺害、男女7万余を連行、家畜10万を掠奪した。トクス・ティムール・ハーンは丞相シレメン等数十騎を引き連れて逃走したが、その途中、部下のイェスデル(アリクブケの後裔)によって殺害され、シレメンは明に投降し、以後モンゴルはモンゴルとオイラートに分れて争った。


 1391年、左軍都督僉事劉真率いる明軍がハミを急襲してこれを占領した。



歴史ランキング

| 歴代中華帝国対外侵略史 | 01時53分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

長崎事件

 長崎事件は1886年8月に長崎に寄港した清の北洋水師の水兵たちが起した暴乱。


 1886年7月にロシア牽制を目的として朝鮮の元山に出動した北洋水師のうち、8月1日、定遠、鎮遠、済遠、威遠の戦艦4隻が修理と燃料補給を目的に長崎に寄港した。


 8月13日、清の水兵約500人が勝手に上陸し、遊郭で暴行破壊、商店に押し入って金品を強奪したり、婦女子を追い回したりと、狼藉の限りを尽した。


 そのため、これを鎮圧せんと警官が現地に到着、水兵たちと斬り合いになり、双方に八十余の死傷者を出した。


 14日、この事件を受けて日清間で協議した結果、清の水兵の上陸を原則禁止とし、上陸する場合は軍官が監督として付き添うことで合意した。


 ところが翌15日13時頃、清側が合意に違反して水兵約300が上陸を開始、うち数人が交番の前で放尿した。これに巡査が注意すると、水兵たちが寄ってたかって巡査3人を袋叩きにし、うち1人を殺害した。


 これを見ていた人力車夫等が激昂して水兵たちに殴り掛ると、残りの水兵たちの一団が加勢したため大乱闘となり、これを制止しようとした警官と水兵が再び斬り合いとなり、再び双方に死傷者が出る事態となった。


 事件後、英仏の仲介により後処理が行われ、清側に全面的に非があるにもかかわらず、撫恤料として、清の¥15,500に対して日本側が¥52,500と多く支出することで妥結した。


 この事件の結果、日本の反清感情が大いに高まり、後の日清戦争の原因の一となった。


| 歴代中華帝国対外侵略史 | 02時36分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

中越戦争 その2 ~中越戦争~

 自分たちが重点的に支援していたカンボジアのクメール・ルージュ政権がベトナムによってあっさり打倒されたことに中国は激怒、「懲罰」と称してベトナムに侵攻する。


 1979年2月17日、広東軍区司令員許世友(中将)指揮する中国軍17個師(師団)22万5千のうち、12個師が国境を越えて侵攻を開始した(カオバンへ6個師、ランソン、クァンニンへ3個師、ラオカイへ3個師、計12個師)。


 19日、中国軍はランソン方面へ1個師(含戦車40輛)、カオバン方面に1個師(含戦車40輛)、ラオカイ方面に2個団(連隊)を増援として投入、20日にはラオカイ、24日にはドンダン、27日にはカオバンを占領、更にランソンに8個師を投入して、3月2日、これを占領し、5日、中国軍は「所期の目的を達成した」と称して撤退を開始し、15日には完了した。


 この一連の流れだけを見ると、中国の計画通りに事が運んだように見えるが、この戦いでのベトナム軍主力は民兵で、その損害が死傷約50,000であったのに対し、中国軍の損害は死傷62,500、破壊された軍用車輛550(うち戦車・装甲車280)、同じく火砲115門という壊滅的といって良い甚大なものであったから、ベトナムを「懲罰」する筈が、ベトナムの逆撃により継戦能力が著しく低下してしまったため、1ヶ月も保たずに全面的撤退に追い込まれたというのが実際である。


| 歴代中華帝国対外侵略史 | 06時36分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT