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マラヤ共産党(MCP)暴乱(1948-1989年)

1941年12月に日本軍がマレー半島に侵攻すると、英植民地当局は逮捕していたマラヤ共産党(MCP)員約200人を解放、1942年頃、MCPはマラヤ人民抗日軍(MPAJA)を結成して、「華人」と称する漢人住民の支援を受け、日本に抗して武装蜂起した。


1945年8月に日本が降伏して第二次大戦が終結すると、MCPは対日協力者への「報復」に乗り出し、反日どころかむしろ対日協力者の多かったマレー人やインド人を攻撃したため、バトゥパハやムアルではマレー人が漢人に対して反撃に出て人種暴動の様相を呈し、ペラ州では漢人数百がマレー人の家屋19戸を焼き、マレー人56人を虐殺した(ブコールの虐殺)。


マラヤに復帰した英植民地当局はMCPに武装解除を要求したが、1848年3月、MCPは中央委員会を開催して「革命武闘路線」を採択し、マラヤ各地で騒乱を引き起こしたため、6月17日、英植民地当局はマラヤ全土に緊急事態を宣言し、7月23日にはMCPとその関連団体の活動を禁止した。


これ以後、MCPは山岳地帯に退き、周辺の漢人住民たちの支援を受けつつ、ゲリラ活動を続けたため、イギリスは1950年頃から山地付近の住民の強制移住政策を実施、これによりMCPは漢人住民たちからの支援が受けられなくなり、更に1952~54年、英植民地当局がマラヤの自治を進展させたため、MCPは急速に弱体化した。


その後もMCPはタイ国境付近の山岳地帯に拠って活動を継続したが、1989年12月2日、マレーシア及びタイ政府と武装闘争放棄の平和協定を締結し、活動を停止した。



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| 歴代中華帝国対外侵略史 | 22時20分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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中国によるインドへの大規模サイバー攻撃

2020年6月に印中両軍の衝突が発生すると、中国はインドの電力供給システムにマルウェアを送り込み、10月12日、インドの金融中心都市ムンバイで大規模停電を発生させた。


この中国による大規模サイバー攻撃により、ムンバイでは一時的に交通網や移動通信網が停止し、一部地域では復旧までに12時間かかった。


2021年2月、この停電について、北米サイバー・セキュリティ企業が「中国の犯行」とする調査報告書を発表している。





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中国軍のインド侵入

2016年6月、中国兵約250人がインド北東部のアルナーチャルプラデシュ州に侵入したが、短時間で退去した。


2017年、インド北東部シッキム州で、国境を広げようとした中国軍とインド軍が衝突した。


2020年6月、インド北西部カシミール州ラダックで、やはり国境を広げようとした中国軍とインド軍との間で乱闘が発生し、インド兵20人が戦死した(中国軍は損害を公表していない)。


2021年1月20日、シッキム州北部のナクラに侵入した中国軍とインド軍との間で衝突が発生し、双方に負傷者が出た。


また同月、中国が不法占拠しているインド領内のアルナーチャルプラデシュ州ツァーリ・チュ川沿いに集落約100戸を建設したことが衛星画像で確認された。


これらの建築物は2019年10月に中国国家主席習近平が訪印してインド首相ナレンドラ・モディと会談し、「地域の安定が重要」という認識で一致した後に建設された可能性が高い。


10月、中国兵200人がアルナーチャル・プラデシュ州の実効支配線を越えてインド側に侵入したため、インド軍はこれを阻止し、一部を捕虜にした。



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| 歴代中華帝国対外侵略史 | 22時51分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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義和団の乱

アロー戦争で清が西洋列強に敗れ、天津条約でキリスト教の清内地での布教が認められると、キリスト教会と現地郷紳・地主・官吏との摩擦が度々起り、概ね教会やキリスト教徒の側に有利に決着することが多かった。


その結果、官吏郷紳等による苛斂誅求に苦しんでいた民衆や、白蓮教・天地会のような清朝から弾圧を受けていた宗教・結社のキリスト教への入信が相次いだ。


ところが、今度はキリスト教徒となったこれらの人々が、教会とその背後の西洋列強の勢力を背景に、一般民衆や敵対する宗教・結社を抑圧するようになると、抑圧された側は当時華北一帯に広まっていた武術結社(道教系が多い)を頼るようになったが、山東省における義和団もその一つであった。


義和団は山東省当局の弾圧を避けて直隷省(現在の河北省と北京市)に入ってから、勢力を急激に拡大し、「扶清滅洋」を唱えて教会、キリスト教徒ばかりか、貿易商や鉄道、電線までを攻撃対象として襲撃し、各地で掠奪暴行放火殺人の限りを尽した。


BoxerSoldiers.jpg
義和団


これに対し、西洋列強は清に義和団の鎮圧を要求したものの、当時の清の最高実力者西太后は義和団の取締りに不熱心で、何らの有効な対策を打たなかったから、2012年の反日暴動のような明らかな官制暴動とまで行かなくとも、限りなくそれに近いと言えよう。


そこで、列強諸国は軍事介入を検討、手始めに天津守備のために設置されていた大沽砲台の引渡しを要求し、清により拒否されると、ここを攻撃して占領した。


このような状況下の1900年6月10日、義和団20万人が北京に入城し、これに意を強くした西太后は21日、列強に宣戦布告した。


両軍はまず北京入口の天津で衝突、義和団と清の新式装備の武衛前軍・左軍とを破った列強軍は、7月14日に天津を占領、外国人居留地を襲っていた義和団を一掃し、8月4日、北京に向った。


8月14日、列強軍は北京への攻撃を開始したが、北京にいた義和団20万の外、北洋軍・八旗4万の多くが既に逃走していたため、翌15日には攻略した。西太后は庶民に変装して紫禁城から脱出し、10月に西安に逃れた。


北京を占領した列強軍は、外国公使館区域を襲っていた義和団を一掃した後、北京市街で掠奪破壊等を行ったが、中でも日本軍のそれは組織的で、公使館付武官柴五郎の指示により、総理衙門(最高幹部会議)、戸部(財務省)から大量の銀塊及び食糧を奪った。


柴五郎は旧会津藩の出身であり、流石は戊辰戦争の最中にあって、庄内藩に戦闘を押し付け、会津藩は後方で掠奪暴行破壊に狂奔していたという実績の持ち主だけのことはあると言えよう。


北京陥落後まもない8月20日、西太后は義和団を賊と指定して鎮圧命令を発した一方、清朝首脳部に列強諸国との講和を命じた。


1901年9月7日、清は「西太后の地位保全の見返りとして、清が多額の賠償金を支払う」という条件で北京議定書を締結、ここに義和団の乱は終結した。





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| 歴代中華帝国対外侵略史 | 22時08分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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漢口事件 ~中国軍民による日本人居留地襲撃~

漢口は武昌、漢陽と併せて武漢三鎮と言われ、現在では武漢市として湖北省都となっている。


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1927年3月24日に発生した南京事件で、日本が何らの居留民保護を行わなかったばかりか、「日本人被害者ゼロ」とウソの発表をしたことから、多くの中国人は日本をカモと見るようになったようで、以後立て続けに日本人に対する掠奪暴行放火殺人等が発生するようになったが、漢口事件もその1つである。


1927年4月3日、国民革命軍が武漢に入城し、うち一部が漢口の日本人居留地に侵入して掠奪破壊を始めると、付近の中国民衆数千も暴徒化してこれに加わり、日本人多数を殺傷して、日本人居留地の2/3を占拠し、更に河岸に向った。


これに対し、日本軍の海軍陸戦隊が暴徒の大群に向って機銃を威嚇射撃すると、暴徒たちは算を乱して四散した。


以後、武漢在留の2千数百の日本人の武漢からの引き揚げが続き、5月には数百人にまで減少した。



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