| PAGE-SELECT | NEXT

≫ EDIT

在日朝鮮人暴乱史 その10 ~その後の在日朝鮮人団体の動向(韓国民団)~

 一方、韓国を支持する民団は日本国内における特権獲得に邁進し、1964年、次の4項目の特権を認めるよう日本政府に要求した。

 ①生活権を保障する子々孫々に至る無条件永住権の付与。
 ②在日韓国人に限り日本政府が財産拠出に制限を加えないこと。
 ③在日韓国人の教育の機会均等。
 ④在日韓国人企業への無差別的融資の提供。



 これ以後、民団は外国人登録令/法への反対、永住権獲得、日本人との法的・経済的格差の撤廃をあの手この手で執拗に要求してきた。現在、彼らが狙っているのは地方参政権の獲得で、続いて地方被選挙権の獲得である。


 ところで、民団の綱領には「大韓民国の国是を遵守する在日韓国国民として大韓民国の憲法と法律を遵守します」とはっきりと宣言されている一方で、日本の法律に関する言及はない。このことは彼らに日本の法律に従うつもりがないことを暗に示している。その証拠に、民団は日本の竹島領有権を否定し、日本海単独表記にも反対している。


 ここまで来れば、彼らの狙いが何であるかわからない者はいるまい。彼らの狙いは日本における特権階級となることと、韓国に内応して日本に損害を与えること、これに尽きる。


スポンサーサイト



| 在日朝鮮人暴乱史 | 07時12分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

在日朝鮮人暴乱史 その9 ~その後の在日朝鮮人団体の動向(朝鮮総連)~

 1955年5月25日、民戦に代って「在日本朝鮮人総連合会」(略称「朝鮮総連」)が結成された。


 朝鮮総連は結成当初から在日朝鮮人の北朝鮮への帰国を日本政府に要請し、1958年8〜10月、日本各地で在日朝鮮人帰国実現要請大会を開催し、署名運動を実施した。一方、北朝鮮もこれに呼応して、同9月、在日朝鮮人の帰国受入と生活保障を表明した。


 このような在日、北朝鮮双方の運動に対して、日本も国内の治安を乱す元凶である在日朝鮮人の帰国を歓迎したため、双方の思惑が一致して、1958年8月、北朝鮮帰還協定が調印され、同12月には帰国が開始された。帰還事業は1984年7月まで続いたが、帰還者総数は93,339人に留まった。


 結局、多くの在日朝鮮人がその敬愛する「祖国」に帰還することを選ばず、日本において特権階級を構成することを選んだということである。

その特権の最たるものは、1976年10月、「在日朝鮮人商工連合会」(朝鮮総連の下部組織)と国税庁とが社会党副委員長高沢寅男の仲介で結んだ「五項目合意」の密約に基づくものであろう。

その内容は次の通りと言われている。

 ①朝鮮商工人の全ての税金問題は、朝鮮商工会と協議して解決する。
 ②定期、定額の商工団体の会費は損金として認める。
 ③学校運営の負担金にたいしては前向きに解決する。
 ④経済活動のための第三国旅行の費用は、損金として認める。
 ⑤裁判中の諸案件は協議して解決する。


 以後、朝鮮総連は現在に至るまで、工作船との連携、麻薬密輸、日本人拉致等日本において日本に敵対し、損害を与えるための活動を促進している。





| 在日朝鮮人暴乱史 | 19時14分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

在日朝鮮人暴乱史 その8 ~吹田・枚方事件~

 民戦の武装闘争路線は、1952年半ばに、いよいよ最高潮に達する。


 5月1日、メーデーでデモを行っていたデモ隊の一部が日比谷公園前において、「人民広場(皇居前広場)に押しかけろ!」との合図で警備線を突破して警官と乱闘中、朝鮮人約3,000人がデモ隊に合流して暴行、放火の限りを尽し、自動車10台、白バイ等を焼いた(血のメーデー事件)。


 6月24〜25日、朝鮮人学生自労隊員約1,500人が待兼山に集結し、二手に分れて伊丹の駐留軍の襲撃を試みて警察隊に阻止され、1隊が軍用列車を襲撃すべく吹田駅へ向う途中交番2ヶ所、国粋大衆党笹川良一宅を襲撃し、また偶然通りかかった占領軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げつけ、更に吹田駅と大阪駅で警察と衝突した。また、別の1隊は池田、豊中等において軍需工場を襲撃した(吹田事件)。


 同じく24日、枚方においても、共産党中核自衛隊、祖国防衛隊約100人が甲斐田地区第4工場に侵入し、時限爆弾、火炎瓶によりこれを爆破した(枚方事件)。


 7月7日、名古屋大須球場でロシア、中国を訪問した帆足計、宮越喜助両議員の歓迎報告会終了後、朝鮮人を主力とする約1,000人が無届デモに移り、警察隊と硫酸瓶、火炎瓶等で衝突した(大須事件)。


 このように、凶暴な朝鮮人集団は日本を騒乱状態に陥れたのであるが、7月に中国に亡命していた徳田球一が日本共産党の極左路線を「一揆主義」と非難すると、次第に凶暴化した闘争は影を潜めていった。


 1954年に入ると、民戦において共産党を支持する民対派と北朝鮮を支持する民族派とが対立し、次第に民族派が優勢となり、1955年5月24日、朝鮮総連への発展的解消を決議して、民戦はその暴虐に満ちた活動を終えた。


| 在日朝鮮人暴乱史 | 05時23分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

在日朝鮮人暴乱史 その7 ~後方攪乱~

 12月に入ると、民戦はより直接的に朝鮮戦争の後方攪乱を図り始めた。


 12月16日、青年行動隊員約110人が3手に分れて大阪市内4箇所の金谷軽金属を襲撃し破壊した。金谷軽金属は民団系の軍需品製造工場であった(金谷軽金属襲撃事件)。


 18日には、青年行動隊員約50人が強制送還反対を叫びながら滋賀県内をデモ行進し、警察が解散を命令したところ、石、棒等を以て攻撃してきたため、空砲を発射してこれを鎮圧した(滋賀県日野町暴力デモ事件)。


 1952年1月3〜4日、兵庫県高砂市において、旧朝連員約40人が高砂分団を襲撃し、暴行破壊の限りを尽した。


 2月28日、旧朝連員約20人が民団広畑分団長宅を襲撃し、また別の旧朝連員約30人が姫路市内の交番4ヶ所を襲撃した(姫路事件)。


 その一方において、従来の犯罪取締を行う警察との抗争も健在で、3月26日〜30日、大阪多奈川町において、密造酒取締の証拠物件をトラック10台に積載して引揚げようとしたところ、朝鮮人約500人が投石、暴行によりトラックの進行を阻止し、トラック9台分の証拠物件を破棄して、被疑者を逃走させたため、後に27人を検挙した。(大阪多奈川町密造酒取締妨害暴力事件)


 以上、1951〜52初の状況を見て来たが、民戦の武装闘争は、この後一層激しさを増すことになる。


| 在日朝鮮人暴乱史 | 00時46分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

≫ EDIT

在日朝鮮人暴乱史 その6 ~民戦の結成~

 朝連解散当時、戦後すぐに発生した猛烈なインフレに対処するために緊縮財政・債務償還の優先といった措置が採られたことにより、今度は逆にデフレに陥って、倒産や失業が増大していたが、当然在日朝鮮人たちも例外ではなかったため、在日朝鮮人たちは「朝鮮人生活擁護闘争」を展開し、地方税の減免や生活保護の適用を要求して、各地の役所を襲撃して行った。


 一方、朝連解散後、日本共産党は朝鮮人運動を指導することを目的として、1949年12月、党内に民族対策部を設置し、1950年6月25日に朝鮮戦争が勃発すると、朝鮮人集団は共産党の全面的支援を得て、28日、日本政府の打倒、朝鮮戦争の後方攪乱を目的として、「祖国(朝鮮のこと)防衛中央委員会」(略称祖防委)を結成し、以後各地に「祖国防衛委員会」「祖国防衛隊」を設立していった。


 そして1951年1月9日、日本共産党の全面的支持の下、東京において「在日朝鮮統一民主戦線」(略称「民戦」)が結成され、共産党の軍事方針と連携して、「闘争」を強化した。これ以後、日本共産党と民戦によるゲリラ、テロが頻発して行く。


| 在日朝鮮人暴乱史 | 09時58分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

| PAGE-SELECT | NEXT