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安房里見氏が改易されたのは、その一族に城方についた者がいたから?

という説を唱える人がたまにいる。


『土屋知貞私記』という文書に城方についた人のリストがあり、その中に「里見美作 里見房州(里見忠義のこと)親類」とあるのがそれなんだけど、一族や重臣が城方に味方した諸侯なんて、バレてるだけでもいくらでもいるんだよね。


最も有名なところでは、何といっても信濃の真田信之。弟の幸村の外、かなり近い一族と思われる真田源八郎なる人物もわざわざ信之の下を去って大坂城に駆けつけている。


他にも毛利輝元、細川忠興、黒田長政、前田利常、京極忠高、山内忠義、生駒一正、仙石忠政、浅野長晟、伊達正宗、南部利直、松平忠直、秋田実季辺りも親類や重臣が大坂城に入ってるし、徳川秀忠の母の一族すらいる。


でも誰も処罰されてないよね。


しかも里見美作が大坂城に入ったタイミングは不明で且つ「牢人」の項目に含まれていることから、里見氏の改易の後だった可能性が高いと思うんだよね。


だから、この説は間違いだろうね。


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| 日本史 | 13時13分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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佐川官兵衛を射殺したのは薩軍ではない

会津藩の元家老佐川官兵衛は西南戦争で薩軍の銃撃により戦死とされている。


銃撃を受けて戦死したのはその通りだけど、銃撃したのは薩軍じゃないんだよね。


佐川を射殺したのは長野唀という農民だった。


西南戦争と前後して、熊本、大分、宮崎などで農民一揆が発生しており、佐川が戦死した阿蘇方面では阿蘇一揆というものが起っていて、その一部が薩軍と連携していたんだよね。


で、佐川らが二重峠というところで薩軍を攻撃していたとき、側面から現れた阿蘇一揆の指導者の1人長野唀が佐川を射殺したってわけ。


これが事実なんだけど、なぜこの事実が広まらないのかね?


会津藩元家老たる者が1平民に射殺されたとあってはカッコ悪いからってことなのかな?






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| 日本史 | 05時24分 | comments:1 | trackbacks(-) | TOP↑

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雑兵の恩賞は「乱妨取り」

戦国時代の武士のうち、恩賞の対象となったのは、給人、中小姓という領主階級のみで、それ以下は対象外でしたが、その代りとして認められていたのが乱妨取り=「敵地における掠奪」です。


大坂夏の陣図屏風には、徒・足軽以下雑兵たちが掠奪や殺人に狂奔している情景が描かれており、その中には三つ葉葵を胴に付けた武士(与力クラスと思われる)も含まれています。


大坂夏の陣


掠奪の対象にはモノだけでなくヒトも含まれ、掠奪された人間は北は東北から南は南九州まで全国各地に設置された人身売買市場で売買され、そのうちの一部は倭寇(後にはポルトガル商船も)によって買い取られ、明、カンボジア、シャム等へ販売されました。


この乱妨取り、戦国時代からかなり時代の下った幕末ですら行われており、会津藩が長岡戦線で他藩の戦闘中に掠奪・放火に狂奔していたという記録が残っています。


更には、旧日本軍が中国・ミャンマー・フィリピン戦線等で「現地調達」と称して掠奪行為を繰り返していますが、これも「乱妨取り」の伝統を受け継いでいたということでしょう。






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| 日本史 | 01時22分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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武士の身分について

西南戦争の論功行賞は大尉以上を対象として実施されましたが、これにはどのような意味があるのか?と思い、少し調べてみたところ、当時騎乗資格のあったのが大尉以上でした。


話変って、一口に「武士」といっても、その内部には大きく4つのカテゴリーがあったことはよく知られています。

給人
中小姓
足軽、武家奉公人


これらのうち、給人が狭い意味での「武士」に該当し、いわゆる領主であり且つ騎乗資格がありました。そして、戦国時代において論功行賞の対象となったのもこの階層(と中小姓)でした。

幕臣でいえば、給人と中小姓が旗本に該当します。与力には騎乗資格がありましたが、あくまで足軽組頭であり、せいぜい徒クラスという身分でした。


それはさておき、西南戦争当時の論功行賞対象が騎乗資格のある大尉以上だったということは、当時の日本軍には戦国以来の武士団の影響が色濃く残っていたということを意味すると思います。


つまり、大尉以上が給人、中少尉が中小姓、下士官が徒で兵が足軽(と武家奉公人)というような位置づけだったのでしょう。





| 日本史 | 02時00分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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竹橋事件

竹橋事件は、西南戦争後まもなくの時期に、皇居からほど近い竹橋に駐屯する近衛砲兵が蜂起したもので、その原因は西南戦争従軍の恩賞に対する不満でした。


西南戦争に従軍した人々に対する論功行賞は、彼らの凱旋後すぐに実施されましたが、論功の対象となったのは大尉以上であり、それ以下にはありませんでした。


兵たちには戦中に1円が支給され、凱旋後は酒餞料として10銭が「下賜」されただけで、更に経費削減を理由に給与の20分の1がカットされることになり、その結果として兵たちが不満を爆発させたわけです。


この蜂起自体はたちまち鎮圧されてしまったのですが、その後の対応が如何にも日本らしいものでした。


政府は、「兵役は国民の義務だから、そもそも給与を支給する性質のものでない」という前提で、忠誠・勇敢・服従を軍人の義務とする『軍人訓戒』を交付したのみで、兵員に対する恩典を厚くするなどということは、第二次大戦で敗れるまで遂ぞありませんでした。


にもかかわらず、日本兵も日本人も第二次大戦に敗れるまで国から離反することもなかったわけです。何なんでしょうねこの国は、、


| 日本史 | 21時06分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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