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【明清】中央官制概要 ~専制君主制の完成~

宋に始まった専制君主制は①文官による武官統制、②各官員の権限の分散、③各官員の権限の重複の組み合わせにより実現したが、この流れは明清にも受け継がれた。


明は建国後まもなく宰相の衙門である中書省を廃止、六部(日本の省に相当)を皇帝直属としたのに加えて内閣を設置し、ここに大学士を置いて皇帝の相談役とした。

内閣大学士はその後宰相に近い権限を有するようになったが、六部と並立した存在であることに変わりはなかった。


清では政治の中心が内閣から軍機処に移ったものの、権限は内閣とほぼ同じであり、六部も皇帝に直属した。

清において特筆すべきは皇太子制度の廃止で、これも皇帝の競争相手になり得る存在をなくすることが目的であった。


これらの施策の結果、明も清も皇帝の地位を脅かすような勢力の出現を、清末を除いて防止することができた。





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宋王朝の文武官員抑制法

唐末五代の混乱期の中から成立した宋王朝は、混乱の主要な原因であった藩鎮勢力の解体を促進し、文官を以てこれに替えたが、皇帝の手足とも言うべき文武官員に対しても油断することなく数々の抑制策を講じた。


第1に、文武官員ともに3~5年任期で異動させ、且つ彼らの本籍地には決して赴任させなかった。


第2に、権限の分散である。

中央において宰相を2~3員、副宰相を2員設置し、これに国防相たる枢密使と財務相たる三司使を加えて最高幹部会議を構成し、特定の1人に権力が集中することを防止した。なお、これらの官員は全て文官である。

地方においては、宋の行政単位は路州県の3段階であったが、路には全てを統括する長官を設置せず、財政長官の転運使、軍管区司令官の都総管、司法長官の提点刑獄公事を別々に設置した外、都総管に至っては更に路を複数の軍事路に分割し、軍事路毎に設置するという徹底ぶりであった。


第3に、権限の重複である。

歴代中華帝国では、必要に応じて官衙を新設した際、権限の重複する官衙が別に存在していてもこれを廃止せず、両方を存続させることがよく行われていたが、宋もこの慣習(?)を踏襲したことは言うまでもない。

加えて官衙内においても、長官のほかに同等の権限を有する官員を設置して、長官を牽制させた。

例えば、州には長官たる知州事のほかに通判州事という官員が配置されたが、これは知州の次官でも属官でもなく、知州と同じ権限を有しており、知州は通判の同意がなければ何事も行うことはできなかった。

この手法は現代中国にも残っており、7大軍区時代には長官たる軍区司令員の副として政治委員が設置されていたが、共産党の役職としては司令員が副書記で政治委員が書記と立場が逆転しているのが常であった。


これらの施策の結果、皇帝のみに全権が集中する専制君主制が成立した。





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| 中国史 | 21時48分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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宋王朝の文民統制ならぬ文官統制

宋建国時点で、唐代まで栄華を誇った貴族は唐末五代の混乱期に全て没落してしまい、代って軍を掌握する藩鎮が各地に盤踞する状態が続いていたので、宋太祖趙匡胤は軍権の回収に努め、戦闘に従事する軍を全て禁軍として中央直属とし、土木工事等労役に従事する廂軍のみを地方所属とした。


その上で地方に駐屯する禁軍の指揮官として都総管を設置し、付近の重要な州の長官(文官)にこれを兼任させ、戦時の総指揮官として別に武官の副総管を配置した。


この結果、副総管は兵を擁しているが動員することはできず、都総管は兵を動員できるが擁していないということになり、地方駐屯軍の反乱の抑止になった。


ただそれでも安心できなかったのであろう、宋の首脳部は副総管の他にやや低位の兵馬鈐轄、兵馬都監を配置した。これらの軍官は副総管ではなく都総管の部下であり、職務も副総管と重複するものであったから、副総管を牽制することになった。


このような①文官を以て武官を制御し、②武官の擁する兵力を分散させるという手法は中央においても用いられ、軍政を担う枢密院の高官を文官で固め、実際に軍を擁する禁軍を殿前司、侍衛親軍馬軍司、侍衛親軍歩軍司の三軍に分け、各々を皇帝に直属させた。


この結果、宋以後の近世中華帝国では中央地方問わず軍による政権転覆は愚か、軍の反乱自体が殆ど発生することがなくなり、現在も中国共産党軍事委員会主席に文の習近平が就任しているように、この流れは続いている。





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八柱国十二大将軍 ~府兵制の始まり~

以前『うたわれるもの 偽りの仮面』というアニメの中で、「ヤマト」という帝国に「八柱将」という名称の官職があり、主として軍事面での最高幹部のような役割を果していたが、これは明らかに中国南北朝時代西魏の「八柱国」をモデルとしたものであろう。


北魏が東西に分裂した際、鮮卑の精鋭の多くは東魏に属し、その差がそのまま東西の軍事力の差となっていたため、西魏の最高実力者宇文泰は漢人農民を租税・色役免除と引き換えに徴兵した。これが府兵制の始まりである。


徴兵された農民たちの軍は六柱国ー十二大将軍ー二十四開府ー九十六儀同に編制された。


基本となるのは二十四開府で、これを1軍とし、2軍毎に大将軍、4軍毎に柱国が設置され、全軍を同じく柱国の宇文泰が統率した。


ここまでで柱国は7人しか出て来ていないが、他に西魏の宗室が柱国となったため、全部で八柱国というわけである。


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【官爵のインフレ】前漢の爵位乱発

前漢の爵位は、現在よく知られている公・侯・伯・子・男とは異なり、上は列侯・関内侯から下は上造・公士に至る20等級あり、公・卿・大夫・士に対応するものです。


この爵位は秦の軍功爵が基になったもので、前漢でもこれが採用され、高祖劉邦は項羽を破った後、漢軍の全ての兵士に第5等級の大夫を授与したばかりか、楚の遺民のうち、項羽の実名を呼んだ全ての人々にも大夫を授与しています。


以後も皇帝の即位その他諸々の機会に全ての人民の爵位1級を進めるというようなことが行われ、更に金銭で売買できるようにもなりました。


その結果、武帝の頃には価値の下落の著しい爵に代って武功爵なるものを創出する必要に迫られ、前漢末頃には列侯・関内侯を除く18等級の爵位がほぼ無価値化するに至りました。



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