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【官爵のインフレ】前漢の爵位乱発

前漢の爵位は、現在よく知られている公・侯・伯・子・男とは異なり、上は列侯・関内侯から下は上造・公士に至る20等級あり、公・卿・大夫・士に対応するものです。


この爵位は秦の軍功爵が基になったもので、前漢でもこれが採用され、高祖劉邦は項羽を破った後、漢軍の全ての兵士に第5等級の大夫を授与したばかりか、楚の遺民のうち、項羽の実名を呼んだ全ての人々にも大夫を授与しています。


以後も皇帝の即位その他諸々の機会に全ての人民の爵位1級を進めるというようなことが行われ、更に金銭で売買できるようにもなりました。


その結果、武帝の頃には価値の下落の著しい爵に代って武功爵なるものを創出する必要に迫られ、前漢末頃には列侯・関内侯を除く18等級の爵位がほぼ無価値化するに至りました。



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| 中国史 | 22時45分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【官爵のインフレ】将軍・校尉のその後

秦漢期には高級軍官だった将軍・校尉も、三国時代には中堅どころに授与されるまでに下落していましたが、南北朝期に更に下落が進み、唐になると、将軍は十二衛の長官と次官に名を残しましたが、校尉は200人の長になりました。


そして、唐も玄宗期を過ぎると、十二衛は形骸化し、事実上将軍・校尉とも武散官の名称に名を残すのみとなり、中唐以降になると、一兵卒に至るまで文武散官が濫発されました。


その結果、宋王朝において、将軍は流外(正一品~従九品より下)武階の最下級にまで下落し、校尉は姿を消しました。


その後、明朝で将軍・校尉とも武散官として復活し、清では駐防八旗の司令官の名称(西安将軍、黒竜江将軍等)になりました。






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| 中国史 | 20時22分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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秦朝軍制 ~『キングダム』の三百人将は存在しない~

人気アニメ『キングダム』の主人公李信は、秦軍内で兵→百人将→三百人将→千人将と順調に昇進していますが、実際の秦軍ではそのような名称ではありませんし、且つ三百人の指揮官はそもそも存在しませんでした。


秦の軍制は下記の通り

大将軍
将軍(数万人)
校尉(1万人)
曲候(数千人)
二五百主(1,000人)
五百主(500人)
百将(100人)
屯長(50人)
什長(10人)
伍長(5人)


こうして見てみると、将軍、校尉の地位の高さに驚きます。


三国時代になると、将軍でも3,200人、校尉は800人の長、曲候は400人の長ですから、官爵のインフレが進んでいたことがわかります。







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| 中国史 | 23時06分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【官爵のインフレ】唐末五代の職事官・散官

玄宗期以降、府兵制が崩壊して募兵制となり、各地の藩鎮(軍管区)の自立性が強まると、藩鎮の司令官たち(節度使、防禦使、団練使、知軍事兼刺史等)は指揮下の兵たちを繋ぎとめるために、様々な工夫を凝らしました。


その中で最も手っ取り早いのが官爵の授与でした。


ただ、当時価値の下落の著しかった勲官を与えても恩典にならない(ほぼ全ての兵士に最高位の上柱国が授与されていた)ので、真の意味で官吏の身分を表す散官(日本の位階に相当)をばら撒き、そのうち職事官をも授与するようになりました。


その結果、黄巣の乱頃になると、藩鎮によっては、


(兵たちが)「初任よりして銀青の階(大夫)を得たり」とか、

「白身(無位無官)のもの一人だになし」


といった状況に至りました。


この猛烈な官爵のインフレは、南北朝以来続いていた貴族層の特権を有名無実化せしめ、宋以後の専制君主制に道を開くことになりました。



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| 中国史 | 23時31分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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【官爵のインフレ】唐の勲官濫発

勲官というのは、上は将軍から下は兵卒に至るまで、軍功に対する恩賞として与えられたもので、日本の勲位はこれを模倣したものです。

日本でも唐に倣って勲一等~勲十二等の12等級に分けましたが、唐は数字で表すような野暮なことはせず、12等級全てに名称を付していました。

その名称は次の通り。

上柱国
柱国
上大将軍(のち上護軍)
大将軍(のち護軍)
上軽車都尉
軽車都尉
上騎都尉
騎都尉
驍騎尉
飛騎尉
雲騎尉
武騎尉


それはさておき、唐の官職体系では職事官、散官には相互に関係性があったのに対し、勲官はそれ自体で独立したものなので、制定当初から大盤振る舞いされがちでした。

例えば、2代皇帝の太宗李世民は高句麗遠征に参加した全ての将兵に勲官1級を授与しています。


次の高宗、則天武后の頃にはこの傾向に更に拍車がかかり、玄宗の頃になると、一兵卒でも最高位の上柱国や柱国といった勲官を有するケースがゴロゴロ出て来ます。


更にそれ以降になると、勲官は軍功・兵役ばかりか労役への報償としても授与されるようになり、その価値は一般民と何ら変わらないところにまで下落してしまいました。



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| 中国史 | 22時30分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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