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在日朝鮮人暴乱史 その10 ~その後の在日朝鮮人団体の動向(韓国民団)~

 一方、韓国を支持する民団は日本国内における特権獲得に邁進し、1964年、次の4項目の特権を認めるよう日本政府に要求した。

 ①生活権を保障する子々孫々に至る無条件永住権の付与。
 ②在日韓国人に限り日本政府が財産拠出に制限を加えないこと。
 ③在日韓国人の教育の機会均等。
 ④在日韓国人企業への無差別的融資の提供。



 これ以後、民団は外国人登録令/法への反対、永住権獲得、日本人との法的・経済的格差の撤廃をあの手この手で執拗に要求してきた。現在、彼らが狙っているのは地方参政権の獲得で、続いて地方被選挙権の獲得である。


 ところで、民団の綱領には「大韓民国の国是を遵守する在日韓国国民として大韓民国の憲法と法律を遵守します」とはっきりと宣言されている一方で、日本の法律に関する言及はない。このことは彼らに日本の法律に従うつもりがないことを暗に示している。その証拠に、民団は日本の竹島領有権を否定し、日本海単独表記にも反対している。


 ここまで来れば、彼らの狙いが何であるかわからない者はいるまい。彼らの狙いは日本における特権階級となることと、韓国に内応して日本に損害を与えること、これに尽きる。


| 在日朝鮮人暴乱史 | 07時12分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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NHK受信料「国会議員払わないなら大阪も払わん」

 参院で初議席を得た「NHKから国民を守る党」(N国党)と無所属の渡辺喜美・元行政改革担当相が新会派を結成したことに絡み、日本維新の会を率いる松井一郎・大阪市長は30日、市役所で記者団を前に「NHKが現職国会議員の受信料不払いを認めるなら、大阪市もやめさせてもらう」と語った。

中略

 維新は参院選のマニフェストでNHK改革を掲げ、公共性の高い分野の無料化や、一部スクランブル化を主張している。
(ここまで)


これでNHKは中途半端に誤魔化すことができなくなりそうですね。


しかし、メディア全盛期なら、維新のマニフェストやN国党の議席獲得なんてあり得なかったものを、、着実に衰退して行ってますね。


その結果、これまでならできていたメディアの宣伝(報道)で世論を特定の方向に向けることが難しくなってきている。


今、日本では東京一極集中が問題となっていますが、これも今がピークのような気がします。今後は分散の方向に向かうんじゃないですかね。





| 未分類 | 00時09分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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在日朝鮮人暴乱史 その9 ~その後の在日朝鮮人団体の動向(朝鮮総連)~

 1955年5月25日、民戦に代って「在日本朝鮮人総連合会」(略称「朝鮮総連」)が結成された。


 朝鮮総連は結成当初から在日朝鮮人の北朝鮮への帰国を日本政府に要請し、1958年8〜10月、日本各地で在日朝鮮人帰国実現要請大会を開催し、署名運動を実施した。一方、北朝鮮もこれに呼応して、同9月、在日朝鮮人の帰国受入と生活保障を表明した。


 このような在日、北朝鮮双方の運動に対して、日本も国内の治安を乱す元凶である在日朝鮮人の帰国を歓迎したため、双方の思惑が一致して、1958年8月、北朝鮮帰還協定が調印され、同12月には帰国が開始された。帰還事業は1984年7月まで続いたが、帰還者総数は93,339人に留まった。


 結局、多くの在日朝鮮人がその敬愛する「祖国」に帰還することを選ばず、日本において特権階級を構成することを選んだということである。

その特権の最たるものは、1976年10月、「在日朝鮮人商工連合会」(朝鮮総連の下部組織)と国税庁とが社会党副委員長高沢寅男の仲介で結んだ「五項目合意」の密約に基づくものであろう。

その内容は次の通りと言われている。

 ①朝鮮商工人の全ての税金問題は、朝鮮商工会と協議して解決する。
 ②定期、定額の商工団体の会費は損金として認める。
 ③学校運営の負担金にたいしては前向きに解決する。
 ④経済活動のための第三国旅行の費用は、損金として認める。
 ⑤裁判中の諸案件は協議して解決する。


 以後、朝鮮総連は現在に至るまで、工作船との連携、麻薬密輸、日本人拉致等日本において日本に敵対し、損害を与えるための活動を促進している。





| 在日朝鮮人暴乱史 | 19時14分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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中越戦争 全







| 歴代中華帝国対外侵略史 | 21時00分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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在日朝鮮人暴乱史 その8 ~吹田・枚方事件~

 民戦の武装闘争路線は、1952年半ばに、いよいよ最高潮に達する。


 5月1日、メーデーでデモを行っていたデモ隊の一部が日比谷公園前において、「人民広場(皇居前広場)に押しかけろ!」との合図で警備線を突破して警官と乱闘中、朝鮮人約3,000人がデモ隊に合流して暴行、放火の限りを尽し、自動車10台、白バイ等を焼いた(血のメーデー事件)。


 6月24〜25日、朝鮮人学生自労隊員約1,500人が待兼山に集結し、二手に分れて伊丹の駐留軍の襲撃を試みて警察隊に阻止され、1隊が軍用列車を襲撃すべく吹田駅へ向う途中交番2ヶ所、国粋大衆党笹川良一宅を襲撃し、また偶然通りかかった占領軍司令官クラーク准将の自動車に火炎瓶を投げつけ、更に吹田駅と大阪駅で警察と衝突した。また、別の1隊は池田、豊中等において軍需工場を襲撃した(吹田事件)。


 同じく24日、枚方においても、共産党中核自衛隊、祖国防衛隊約100人が甲斐田地区第4工場に侵入し、時限爆弾、火炎瓶によりこれを爆破した(枚方事件)。


 7月7日、名古屋大須球場でロシア、中国を訪問した帆足計、宮越喜助両議員の歓迎報告会終了後、朝鮮人を主力とする約1,000人が無届デモに移り、警察隊と硫酸瓶、火炎瓶等で衝突した(大須事件)。


 このように、凶暴な朝鮮人集団は日本を騒乱状態に陥れたのであるが、7月に中国に亡命していた徳田球一が日本共産党の極左路線を「一揆主義」と非難すると、次第に凶暴化した闘争は影を潜めていった。


 1954年に入ると、民戦において共産党を支持する民対派と北朝鮮を支持する民族派とが対立し、次第に民族派が優勢となり、1955年5月24日、朝鮮総連への発展的解消を決議して、民戦はその暴虐に満ちた活動を終えた。


| 在日朝鮮人暴乱史 | 05時23分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ベトナム戦争 その2 ~暴虐の限りを尽した韓国軍~

 さて、10億ドル欲しさに欣喜雀躍して米軍に次ぐ大兵力をベトナムに侵攻させた韓国軍だったが、彼らは戦闘よりも略奪暴行放火殺人の方面で全世界に名を轟かせた。以下、韓国軍の暴虐ぶりをその主要もののみに限定して、以下列挙しておこう。


 1965年12月22日、韓国軍2個大隊がビンディン省クイニョン市に500余発の砲撃を加えた後、「殺し尽し焼き尽し破壊し尽せ!」というスローガンを唱えて掃討作戦を展開、民間人50余人(70歳以上の老人6人、12歳以下の子供22人、女22人、妊婦3人等)を虐殺した。

 1966年1月23日〜2月26日、猛虎師団の3個小隊、2個保安大隊等がビンディン省を中心とする地域において、民間人1,200人以上を虐殺し、家屋1,535軒、食料850tを焼き払った。

 1966年、韓国軍がフーイェン省タオ村で村民42人(大部分が婦人)を無差別に殺戮した。

 1966年、韓国軍がアンヤン省の3か村において住民110人を、ポカン村において32人以上を防空壕へ押し込めたうえ、毒ガスを用いて虐殺した。

 1966年、韓国軍がヴンタウ省においてベトナム人35,000人を「死の谷」に連行し、残忍な拷問を加えた上、全員を虐殺した。

 1966年1月1〜4日、韓国軍がトアフラ地方において、家屋やカオダイ(高台)教寺院を焼き払い、家畜数千頭を殺戮し、仏教寺院から貨幣数tを強奪した。

 1966年1月11〜19日、韓国軍がビンディン省の村落において、民間人300人以上を捕えて拷問を加えた後虐殺し、更に400人以上を殺害した。

 1966年2月26日、韓国軍が民間人253人(老人40人、子供76人、婦人137人)を防空壕へ押し込めた上で、化学薬を使って殺害した。

 1966年3月26〜28日、韓国軍がビンディン省で家屋・寺院等数千を焼き、婦人たちを年齢 にかかわらず集団で強姦した。

 1969年10月14日、韓国兵1名がパンラン地域(ベトナム南部)のリンソン寺において、ベトナム婦人に戯れようとして住持に追い出されたことに怒り、同僚を誘って銃を乱射し、僧4人を殺害した。


 上述の如く、韓国軍はベトナムで文字通り掠奪暴行放火殺人の限りを尽した。韓国軍によって虐殺されたベトナム人は一説では30万に達すると言われている。






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| 歴代朝鮮対外侵略史 | 09時30分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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在日朝鮮人暴乱史 その7 ~後方攪乱~

 12月に入ると、民戦はより直接的に朝鮮戦争の後方攪乱を図り始めた。


 12月16日、青年行動隊員約110人が3手に分れて大阪市内4箇所の金谷軽金属を襲撃し破壊した。金谷軽金属は民団系の軍需品製造工場であった(金谷軽金属襲撃事件)。


 18日には、青年行動隊員約50人が強制送還反対を叫びながら滋賀県内をデモ行進し、警察が解散を命令したところ、石、棒等を以て攻撃してきたため、空砲を発射してこれを鎮圧した(滋賀県日野町暴力デモ事件)。


 1952年1月3〜4日、兵庫県高砂市において、旧朝連員約40人が高砂分団を襲撃し、暴行破壊の限りを尽した。


 2月28日、旧朝連員約20人が民団広畑分団長宅を襲撃し、また別の旧朝連員約30人が姫路市内の交番4ヶ所を襲撃した(姫路事件)。


 その一方において、従来の犯罪取締を行う警察との抗争も健在で、3月26日〜30日、大阪多奈川町において、密造酒取締の証拠物件をトラック10台に積載して引揚げようとしたところ、朝鮮人約500人が投石、暴行によりトラックの進行を阻止し、トラック9台分の証拠物件を破棄して、被疑者を逃走させたため、後に27人を検挙した。(大阪多奈川町密造酒取締妨害暴力事件)


 以上、1951〜52初の状況を見て来たが、民戦の武装闘争は、この後一層激しさを増すことになる。


| 在日朝鮮人暴乱史 | 00時46分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ベトナム戦争 全




| 歴代朝鮮対外侵略史 | 20時53分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ベトナム戦争 その1 ~カネが欲しくて参戦~

 ベトナム戦争に際し、アメリカは協力者を確保することを目的として、派兵規模に応じた「補助金と対米移民枠」を約束した。これに大喜びで乗ったのが韓国で、米軍に次ぐ規模の大兵力をベトナムに侵攻させ、その見返りとして10億ドルを入手している。


 韓国軍の第一陣500人がベトナムに侵攻したのは1964年9月のことで、以後増援に次ぐ増援で、68年8月に約5万(内訳:歩兵2個師団(猛虎、白馬)、海兵1個旅団(青龍)45,000、支援部隊5,000)に達し、また同時にその暴虐も頂点に達した。


 韓国軍の暴虐は後で纏めて触れるとして、戦況は次第に米軍とその同盟軍にとっては悪化して行き、米軍の兵力縮小、タイ軍の撤退、豪軍とニュージーランド軍の撤退表明を受け、1971年9月、韓国軍も撤退を表明し、73年に撤退を完了した。


| 歴代朝鮮対外侵略史 | 20時50分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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ベトナム侵攻(1788-89)

 黎朝の首都ハノイが西山(タイソン)党阮文恵(グェン・フエ)によって攻略されたため、黎朝の宗族が清に救援を要請した。これを口実として、両広総督(広東・広西両省長官、文正二品)孫士毅が、兵力を以て黎氏を支持しつつ、同時にベトナムを支配する一挙両得の利を唱え、乾隆帝もこれを支持してベトナム侵攻を下令した。


 1788年10月28日、両広総督孫士毅率いる清軍13,300が鎮南関からベトナムに侵攻し、11月に入って孝昌江、市球江等においてベトナム側の若干の抵抗を排し、11月20日、ハノイを占領して、22日、黎朝の宗族を安南国王に冊封し、孫士毅が実権を掌握した。


 12月21日、清軍のハノイ入城の報を受けた西山党の北平王阮文恵は、帝位に就いて光中と建元し、26日、兵10万余、戦象数百を率いて北進し、三方からハノイを包囲して、周辺の清軍陣営を壊滅させ、翌89年1月5日、ハノイを奪回した。


 この戦いで清軍は総兵力13,300中、提督(軍管区司令官、武従一品)許世亨、総兵(師団長、武正二品)張朝龍、李化龍等大員の外、遊撃(大隊長、武従三品)〜額外外委(中隊長級、武従九品)145人、兵員6,876人、計7,021人戦死という壊滅的大損害を出してベトナムから一掃され、乾隆帝はベトナム支配を断念して、阮文恵を安南国王に冊封した。


| 歴代中華帝国対外侵略史 | 00時49分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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