2020年01月 | ARCHIVE-SELECT | 2020年03月

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「名将」李舜臣の戦歴 その5 ~エピローグ~

 以上が韓国で「名将」と称されている李舜臣の朝鮮征伐における全戦歴である。



 李舜臣は朝鮮征伐のほぼ全期間を通じて、朝鮮水軍の司令官として活動していたが、そのうち活躍したのは日本側に備えのなかった緒戦のうちのみで、朝鮮征伐の殆どの期間即ち文禄の役の半ば以降慶長の役の休戦協定が成立するまで殆ど全くといって良いほどに戦いの主導権は愚か活躍すらできなかったというのが歴史の真実である。


 最後の最後、それも休戦協定成立後になって、小西行長の撤退を妨害し、小西行長の救援に駆けつけた島津義弘等の軍を激戦の末退却させることができたことは、ある意味戦闘には勝利したと言えるかもしれない。


 しかし、日本側にしてみれば、本来の目的は小西行長の救援であったわけで、救援軍はその目的を達成し、且つ救援軍自身も無事撤退に成功しているから、作戦としては明・朝鮮軍が失敗、日本軍が成功したということになり、更に、この戦いは休戦協定成立後のものであるから、朝鮮征伐全体の戦況には全くと言って良いくらい関係がない。




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| 朝鮮史 | 23時08分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「名将」李舜臣の戦歴 その4 ~講和成立後の攻撃そして返討ち~

 古今島に退却していた明・朝鮮水軍は、順天を守備していた日本軍撤退の動きを察知すると、これを妨害すべく再び進出して海上封鎖を実施した。そのため、順天を守備していた諸侯小西行長が明水軍の総兵陳璘と交渉して、撤退の際攻撃しない旨の約束を取り付けたにもかかわらず、総兵陳璘の指揮下にあった李舜臣がこれに断固反対し、且つ日本軍の撃滅を強く主張したため、明・朝鮮水軍は撤退を取りやめて海上封鎖を継続した。



 その頃、泗川から無事撤退した諸侯島津義弘、立花宗茂等は、小西行長が海上封鎖によって撤退を妨害されていることを知ると、急遽水軍を編成して救援に向った。救援軍の接近の報を受けた明・朝鮮水軍は海上封鎖を解除して、11月18日、露梁海峡で救援軍を迎え撃った。


 戦闘は露梁海峡を通過しようとした救援軍に対する待伏せ攻撃で始まったため、救援軍は苦戦に陥り、遂に露梁海峡を突破せず退却するに至ったが、明・朝鮮水軍も副将(協守副総兵官)鄧子龍や李舜臣が乱戦の中で戦死したのを始め、多くの損害を出したため、退却する救援軍を追撃することも、海上封鎖を継続することも適わなかった。そのため、この海戦の翌日、小西行長は無事釜山への撤退に成功している。



 これが韓国で「露梁大捷」と称される戦いであるが、こうして見ると、戦闘に限定しても大勝利にはほど遠いことがわかり、また、李舜臣は日本軍の流れ弾に当って戦死したとされているが、これもウソで、「乱中雑録」によれば、船尾に伏せた銃兵の一斉射撃を受けて戦死している。




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| 朝鮮史 | 08時40分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「名将」李舜臣の戦歴 その3 ~なすところなかった慶長の役~

 朝鮮水軍が返討ちに遇った後、李舜臣が再び水軍統制使に返り咲いた。


 その頃、日本の地上軍は慶尚道から全羅道に進出し、全州を攻略して、明・朝鮮軍を敗走させた後、全羅道の掃討戦に入っており、李舜臣は、地上軍に併せて西進していた日本水軍の前衛を朝鮮半島西南端の鳴梁海峡において撃破したものの、強大な日本水軍とのそれ以上の戦闘を避けて戦場より離脱するとともに、その根拠地も放棄した。



 この戦い以降も日本軍は順調に全羅道の掃討を進め、李舜臣率いる朝鮮水軍の拠点も次々に陥落したため、李舜臣は後退を余儀なくされ、遂に全羅道北端まで退却したが、日本軍が全羅道、忠清道以北へ進出せず、却って朝鮮半島南岸の拠点に撤退して持久策に転じたため、李舜臣も朝鮮半島南岸の古今島に進出することができた。



 1598年9~10月、明・朝鮮軍が10万以上の兵力を以て朝鮮半島南岸の日本軍拠点蔚山、泗川、順天に総攻撃をかけると、李舜臣は総兵官陳璘率いる明水軍の指揮下に入って順天攻撃に参加したが、さしたる成果を挙げることもできず、損害が大きくなったため、古今島へ撤退した。


 日本軍は明・朝鮮軍による大規模攻勢を退けたわけであるが、まさにこのとき、日本軍に対して撤退命令が出されたのである。




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| 朝鮮史 | 05時55分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「名将」李舜臣の戦歴 その2 ~休戦交渉の決裂~

 さて、日本側の戦術変更により、何らなすところなくなった李舜臣は、休戦交渉中の1593年3月と9月頃、日本側の防備が手薄と見たのか、巨済島2度に亘って襲撃したものの、全て撃退され、以後戦線は膠着した。


 1596年9月、明と日本の講和交渉は、豊臣秀吉の提示した講和条件1)明の皇女を天皇に嫁がせる、2)朝鮮南部の割譲が受け入れられず、単に日本国王へ封爵されたのみであったため決裂し、1597年2月、朝鮮再征が決定された。


 1597年7月、朝鮮水軍が釜山に続々と終結する日本軍を攻撃するも、日本軍により返討ちに遭って壊滅的打撃を受けた。これが慶長の役における海上戦闘の始まりである。




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| 朝鮮史 | 23時59分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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「名将」李舜臣の戦歴 その1 ~緒戦の活躍と日本側の対応~

 韓国が国を挙げて「英雄」「名将」として称えている水軍指揮官李舜臣に関する韓国国定教科書の記載を次のように紹介している。

 

文禄の役

「慶尚道・全羅道の海岸警備を担当した水軍は日本水軍の侵入を阻止。全羅左水使に赴任した李舜臣は板屋船・亀甲船を造船、戦艦・武器を整備し、水軍を訓練、軍糧米を貯蔵。80余隻の船で玉浦・泗川・唐浦・唐項浦でも大勝。閑山島の大勝で南海の制海権を掌握。日本軍の水軍併進作戦を挫折させた。


慶長の役
朝鮮・明連合軍が日本軍を撃退。李舜臣は大勝利。朝鮮水軍は敗走する日本軍船百隻を露梁の沖で
さえぎり、最後の一撃を加えた。この戦いで李舜臣は戦死。


 これによれば、文禄・慶長の両役とも海上においては勝利の連続で、戦況の主導権を握っていたという認識のようである。


 それでは、朝鮮水軍の戦いを李舜臣を中心に見てみよう。

日本軍は釜山に橋頭堡を築き、そこを拠点として快進撃を続けたが、あくまで地上軍による進軍であって、海上には単に輸送船団が存在するのみであった。


 このとき(1592年4~5月)、全羅左道水軍節度使(海軍軍管区司令官)であった李舜臣が輸送船団を襲撃して成果を挙げたのだが、これが韓国国定教科書で「大勝」と喧伝される玉浦・泗川の戦いである。


 このような状況の下、日本側は地上軍の一部を以て水軍を編成してこれに対応したが、上述の閑山島の戦いで敗れると、海戦を避けて各地の沿岸拠点に要塞を建設して、水軍に対しては防禦に徹することにした。

当時の水軍は陸地に強く依存する沿岸水軍であったため、この対策は効を奏した。


 これ以後李舜臣は釜山浦や熊川を攻撃したものの、戦果を挙げることができず、損害が増大するばかりで、碧蹄館の戦い後の休戦に至るまで、事実上遊兵化してしまったと言って良いだろう。




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| 朝鮮史 | 05時31分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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横浜にIRって必要かね?

  カジノを含む統合型リゾート施設(IR)誘致を目指す横浜市で二十九日、IR関連産業の見本市「第一回横浜統合型リゾート産業展」が開かれた。IR事業に絡む汚職事件を受け、この日も国会では推進の是非を巡る議論が噴出。問題が山積する渦中だけに、会場前では誘致に反対する市民らが批判の声を上げた。 

(ここまで)


横浜はインバウンドの負け組で、何とかインバウンドを増やしたいから、IR誘致ってことらしいけど、IRって地方創生の一環の筈だよね。

だとしたら、中心地は寂れて来ているにしても、東京の衛星都市として人口の増えている横浜にIRってのは、本来の趣旨から大いに外れることになるよね。

北海道、東北、北陸、北関東、甲信越、近畿、中国、四国、南九州を優先すべきだね。


それはさておき、横浜が日本人に人気の観光地だからって、外国人に人気になるとは限らないってことがわからないのかね?

横浜なんて、外国人居留地があったから、日本人にとってはオシャレというイメージがあるかもしれないけど、そんなもの当の外国人たちにしてみればどうでも良いことなんだよね。

東京にしても、外国人で溢れかえっているのは、東側なら浅草、秋葉原、銀座あたりで、浅草、秋葉原なんて極めて日本らしさに溢れた場所じゃん。

横浜は自意識過剰なのか何かよくわからないけど、それが受け入れられないのかな?






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