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中国漁船260隻がガラパゴス沖でサメ乱獲

世界遺産ガラパゴス沖に中国漁船260隻、フカヒレ狙いか…自制要求も「公海上で合法的だ」
 【リオデジャネイロ=淵上隆悠】南米エクアドルの世界自然遺産ガラパゴス諸島沖合で、約260隻の中国漁船団の操業が確認されている。エクアドル政府は、乱獲による生態系への影響を懸念して中国側に自制を求めているが、中国政府は「公海上で合法的だ」として応じていない。

(ここまで)


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まるで蝗かバッタのような連中です。


中国人が過ぎ去った後には荒廃のみが残ることは、現在の中国を見ればよくわかります。


それにしても、チベット、東トルキスタンで民族浄化を推し進め、南シナ海では埋め立て地を「島」と称する等国際法など歯牙にもかけない中国が、「公海上で合法」ですか?


犬が聞いても笑う妄言ですな。


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| 中国 | 21時43分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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匈奴・西域侵攻 その6 ~漢衰退、西域を放棄~

 74年、左谷蠡王率いる北匈奴軍2万が西域に進攻し、車師後部を回復した。また、カラシャフル、クチャが漢の支配に抗して蜂起し、西域都護を殺害した。


 77年、漢軍がハミから退去し、代って北匈奴が同地に兵を配置した。これにより、西域諸国は漢の支配から脱却した。


 89年、漢軍8,000が南匈奴軍3万とともに、鮮卑の攻勢により弱体化した北匈奴へ侵攻し、稽落山においてその主力を大破して、13,000人を殺害し、20余万人を連行した。


 この戦いの結果、北匈奴の弱体化は決定的となり、続く90年、91年にも漢と南匈奴に敗れ、モンゴル高原を放棄して西走した。そして、モンゴル高原には北匈奴に代って鮮卑が入った。


 91年、漢がクチャに西域都護を置き、94年、漢軍と西域8か国の兵7万がカラシャフルに侵攻し、王を殺害して、元孟を王位に就けた。この結果として、パミール以東の西域諸国が漢に服属した。


 ところが、漢の中央政府において西域放棄論が台頭し、107年、西域都護を廃止したため、再び北匈奴がこの地域における勢力を回復させた。すると漢はまたもや西域に侵入して、北匈奴と抗争を繰り広げることになったが、135年、北匈奴の呼衍王が車師後国を漢から奪回して以降、西域における漢の勢力は衰え、以後漢そのものが滅亡するまで回復することもなく、西域諸国は漢の支配から脱却した。



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| 歴代中華帝国対外侵略史 | 11時06分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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匈奴・西域侵攻 その5 ~匈奴、南北に分裂~

 9年、単于が漢より授与された「匈奴単于璽」を、新が単于を騙して回収し、改めて「新匈奴単于章」の印を授与した。これは、新が単于を皇帝に準ずる地位から臣下に降格したことを意味し、以後新と匈奴との関係は悪化した。


 10年、西域都護丹欽が、匈奴に降ることを計画していた車師後国王を処刑したため、その兄の狐蘭支が民衆2,000余人を連れて匈奴へ逃亡し、匈奴と共同で車師に進攻し、西域都護府司馬を負傷させた後匈奴に帰還した。


 13年、カラシャフルが新の支配に抗して蜂起し、西域都護を殺害した。これを機に西域諸国は新の支配から脱却して行った。


 48年、日逐王比が蒲奴単于に背いて漢に降伏し、呼韓邪単于と称した。これにより匈奴は南北に分裂し、50年、漢は使匈奴中郎将を設置し、単于を傀儡として南匈奴を支配した。


 73年、奉車都尉竇固率いる漢軍が北匈奴へ侵攻し、天山、蒲類(ハミ北西)において呼衍王率いる北匈奴軍を撃破し、ハミに漢兵を配置した。この結果、天山北路諸国は漢に服属した。


 同じ年、仮司馬班超が鄯善国(旧楼蘭国)へ使者として赴き、たまたまそこへ到来した北匈奴の使者を手兵36人で夜襲して皆殺しにし、鄯善を服属させ、更にホータンへ行き、王を脅迫して北匈奴の使者を殺害させ、これも漢に服属させた。以後天山南路諸国も漢に服属した。



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| 歴代中華帝国対外侵略史 | 23時12分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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匈奴・西域侵攻 その4 ~匈奴、東西に分裂~

 前67年、侍郎鄭吉率いる漢軍1,500と西域諸国軍1万余が匈奴に属する車師国を攻略し、漢はここに屯田兵を置いた。


 前60年、匈奴の西域統治責任者日逐王が漢に投降し、漢はクチャ東方の烏塁城に西域都護を設置して、ここを西域侵略拠点とした。


 前54年、郅支単于率いる西匈奴軍が呼韓邪単于の軍を破って単于庭を確保したため、前51年、東匈奴呼韓邪単于は漢の支援を求めて入朝した。


 前49年、漢が東匈奴を支援したため、西匈奴は西北方へ移動し、烏掲、堅昆(キルギス)、丁令を服属させ、堅昆に単于庭を設置した。


 前43年、漢の支援を得て勢力を回復した呼韓邪単于が、郅支単于が堅昆に移動した後の単于庭へ帰還した。


 一方、郅支単于は、烏孫と対立関係にあった康居が烏孫を討つべく、烏孫と敵対していた郅支単于を招いたことに応じて康居へ向かったが、途中寒気に襲われて多数が死に、康居に着いたときには僅か3,000に減っていた。


 前36年、西域都護甘延寿率いる漢軍が西匈奴の勢力の弱体化に乗じて康居へ侵攻し、郅支単于を殺害した。


 この結果、東匈奴が西匈奴を吸収し、匈奴は一時的に漢に服属することとなった。



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| 歴代中華帝国対外侵略史 | 23時40分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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匈奴・西域侵攻 その3 ~匈奴弱体化~

 前78年、中郎将笵明友を度遼将軍とする漢軍2万が匈奴と烏丸との抗争に乗じて遼東より匈奴に侵攻したものの、匈奴が既に撤退した後であったため、匈奴の攻撃により損害を被っていた烏丸に矛先を向けて三王六千余人を殺害した。


 前72年、祁連将軍田広明率いる4万が西河郡から、度遼将軍笵明友率いる3万が張掖から、前将軍韓増の3万が雲中から、後将軍趙充国の3万が酒泉から、虎牙将軍田順率いる3万が五原から、計16万の漢軍が匈奴へ侵攻して3,000余人を殺害または連行し、馬牛羊9万弱を掠奪した。このとき、烏孫軍5万も漢に与して西方から匈奴へ侵入し、右谷蠡王の王庭まで侵入して39,000余人を捕虜とし、家畜70万余を掠奪した。


 この結果、匈奴は弱体化し、丁令、烏丸、烏孫の攻撃を受け、これまで匈奴に属していた諸国も離反して行った。



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| 歴代中華帝国対外侵略史 | 02時47分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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匈奴・西域侵攻 その2 ~西域侵攻~

 前108年、漢が田土を増やして匈奴を蚕食し、包頭東方に至って塞を建設した。また、西域諸国が匈奴に与しないようにするための示威として、従驃侯趙破奴が700の兵を率いて、楼蘭国の都クロライナを急襲し、これを攻略した。


 前104年、武帝がフェルガナに産する名馬を購入するための使者を派遣したものの、フェルガナ王の承諾を得られず、且つこの使者が暴言を発したことに怒ったフェルガナの貴人たちによって殺害されたことに対する「懲罰」を口実として、弐師将軍李広利指揮する漢軍6,000+「郡国の悪少年」数万がフェルガナに侵攻するもフェルガナ東端郁城においてフェルガナ軍に大敗した。


 前103年、浞野侯趙破奴率いる漢軍2万が朔方から匈奴へ侵攻するも、匈奴軍8万に包囲され、水を求めて自ら営を出た趙破奴が匈奴に逮捕されたため、軍官たちは将軍を失ったことにより帰国後誅されることを恐れて、全軍を挙げて匈奴に降伏した。


 前102年、李広利率いる漢軍6万(主として浮浪の徒)がフェルガナへ侵攻し、40日余の包囲の末、これを降伏させた。


 前99年、李広利率いる漢軍3万が酒泉から匈奴へ侵攻し、天山(天山山脈東端)において右賢王の軍を破って1万余人を殺害または強制連行して帰還する途中、匈奴の大軍に包囲されて大敗した。また、李広利の軍を援護するために匈奴軍を2分させるべく騎都尉李陵率いる漢軍5,000が居延沢の北へ侵攻したところ、単于の主力と遭遇戦になり、武器食糧が尽きたため降伏した。


 前97年、李広利率いる漢軍13万に強弩都尉路博徳率いる1万余が合流して朔方から、遊撃将軍韓説率いる3万が五原から、合騎侯公孫敖率いる4万が雁門から匈奴へ侵攻、これを知った匈奴はその家族財物をことごとく余吾水に下げ、単于直率の10万が李広利の軍と戦って撃退した。また、公孫敖は左賢王に敗れた。


 前90年、李広利率いる7万が五原から、御史大夫商丘成の3万が西河から、重合侯馬通の4万が酒泉から、計14万余の漢軍が匈奴へ侵攻し、そのうち李広利が左賢王率いる2万と遭遇戦となってこれを撃退したものの、狐鹿姑単于率いる匈奴軍5万に敗れ、李広利は投降した。



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| 歴代中華帝国対外侵略史 | 22時36分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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匈奴・西域侵攻 その1 ~河西回廊侵奪~

 前215年、将軍蒙恬率いる秦軍30万が匈奴へ侵攻し、オルドス地方の黄河以南を制圧して44県を設置したが、前210年の始皇帝の死後まもなく陳勝・呉広の乱が起ると、騒乱は秦全土に広まり、これを好機とした匈奴が当該地域を奪回した。


 漢土において、漢成立後まもなく高祖劉邦が匈奴に対し大規模軍事行動を起して大敗、その結果漢が匈奴に対する挑発をやめたため、以後しばらく両者の間に軍事衝突は起らなかった。


 ところが、武帝が即位すると状況は一変、宗室諸王の封領の細分化によって中央集権を進め、文帝、景帝の善政によって富国を実現した漢は、匈奴や南越に対す侵奪妄動を始めた。


 前133年、馬邑の住人聶壱が詐って匈奴に投降し、馬邑の官吏を殺害して馬邑を引き渡すから、匈奴に受け取りに来るよう勧めた。匈奴の軍臣単于はこの虚言を信用し、10余万の兵を率いて馬邑に近づいたが、家畜が野原に散在するにもかかわらず、これを牧する人のいないことを怪しいと思い、付近の亭を攻めて、巡視中の雁門郡の尉史(都尉、城尉、塞尉等の属官)を捕えて問いただし、漢軍30万が馬邑付近で包囲体制を整えているという漢の詐謀を聞き、急いで長城の北へ帰還した。


 前129年、将軍4人が率いる各1万計4万の漢軍が匈奴へ侵攻するも敗走した。


 前128年、車騎将軍衛青率いる漢軍3万が雁門から匈奴へ侵攻して、数千人を殺傷した。


 前127年、衛青率いる漢軍が雲中から匈奴へ侵攻し、楼煩白羊王の匈奴軍をオルドスにおいて撃破して、数千人を殺傷、羊100余万頭を掠奪した。この戦いの結果、匈奴はオルドスから一掃され、漢はここに朔方郡を設置した。


 前124年、遊撃将軍蘇建、疆弩将軍李沮等率いる漢軍10余万を、長平侯衛青が統率して朔方から匈奴へ侵攻し、右賢王の幕営を包囲してこれを破り、男女15,000人を連行した。右賢王や精騎は脱出に成功した。


 前123年、大将軍衛青を総司令とする漢軍6将軍10余万が定襄から匈奴へ侵攻し、19,000余を殺害または強制連行した。


 前121年春、驃騎将軍霍去病率いる漢軍1万が隴西方面から匈奴へ侵攻し、大黄山(甘粛省丹東県)を通過して千余里のところおいて匈奴18,000余を殺害または強制連行し、休屠王の天を祀るための金人(金像)を掠奪した。


 同夏、霍去病、合騎侯公孫敖率いる漢軍数万が隴西方面から、同時に博望侯張騫、郎中令李広等が右北平(河北省北部)から匈奴へ侵攻した。公孫敖、張騫の軍は道に迷って機を失い、李広の軍は左賢王に包囲されて壊滅したが、霍去病の軍は居延を過ぎて祁連山(甘粛省張掖県酒泉南方)において匈奴と戦い、3万余人を殺害または連行した。この戦いの後、匈奴の西方防衛に当っていた渾邪王が漢に投降した。


 前119年、大将軍衛青、驃騎将軍霍去病率いる漢軍各5万計10万が各々定襄(山西省大同市西北方)、代郡(山西省大同市)から匈奴へ侵攻。衛青は単于の本軍に遭遇して激戦の末これを破り、ウランバートル北方までこれを追撃した後帰還し、霍去病も左大将率いる匈奴軍と交戦してこれを撃破し、7万余人を殺害または連行した。この戦いの結果、匈奴はその本営を漠北へ移動させた。


 前115〜73年、漢が西域侵入路を確保することと、匈奴と羌との連絡路を遮断することを目的として、渾邪王、休屠王の故地に河西四郡(武威、酒泉、張掖、敦煌)を設置した。



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| 歴代中華帝国対外侵略史 | 22時56分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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駐英中国大使「ウイグル人は幸せに暮らしている」BBC番組で

https://www.bbc.com/japanese/video-53465253
中国の劉暁明駐英大使は19日朝、BBC番組「アンドリュー・マー・ショー」に出演し、新疆ウイグル自治区でウイグル人が目隠しをされて列車に乗せられている様子に見えるドローン映像を見せられて、「何の映像か分からない」と述べた。

劉大使はさらに、中国政府が新疆ウイグル自治区でウイグル人女性の不妊手術や妊娠中絶を強制しているという現地報道を否定した。

(ここまで)


「でっち上げ」
「我々を陥れようとしている」

とかの全否定で、しかも相手の質問に正面から答えず、自分の主張をまくしたてています。


どちらが正しいと思うかはリンク先の動画を観た人それぞれだと思いますが、この大使の妄言のオンパレードについては、日本人は少しは見習っても良いのではないですかね。


第三者に与える印象はともかくとして、相手に主導権を握らせず、自分が主導権を握ることには成功しているように思われます。





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| 中国 | 23時15分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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高速道路の最高速度120キロへ とりあえず東日本の5区間で

高速道路の最高速度120キロへ 全国5区間が候補、100キロ超は初 警察庁
 警察庁は22日、高速道路の最高速度について、一定の条件を満たす場合に限って現在の時速100キロから120キロに引き上げられるよう交通規制基準を変更すると発表した。最初は全国の5区間を候補とし、岩手県の東北自動車道の一部区間から順次実施される見込み。導入後の状況を見たうえで他の区間についても検討する。

(中略)

 一方、トラックなどの大型貨物車は、積載量が多く、事故の被害が大きくなる可能性があるため、現行の80キロ規制を据え置く。警察庁は追い越し車線へ進路変更する際、スピードを上げてくる右後方の車への注意をより一層呼びかけるなどして安全対策を図るとしている。

(ここまで)


やっとこさですかい、、


今でも追い越し車線とか、片側3車線だと、ゆっくり走って120キロくらいですから、ようやく現状に追いついたというところでしょうか。


ということは、これから巡航140キロが標準ということになりそうなので、鬱陶しいビッグスクーターは高速から姿を消しそうですね。





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ブータン侵入

2000年代に入ってから、中国がブータン領内に勝手に道路建設を行い、中国軍民が度々ブータン領内に侵入したため、ブータン政府は中国に抗議している。


2017年6月28日、ブータンの駐インド大使ナムギャルは、「中国人民解放軍が最近、ドクラムにあるブータン陸軍の兵舎に向かう道路の建設を始めた」と、中国側に抗議した


2020年6月、ブータンが助成を申請した同国東部「サクテン野生生物保護区」を巡り、中国代表が「保護区は中国とブータンの国境画定協議で議題になっている紛争地域だ」として、異議を訴えた。


これに対し、会議でブータンの利益を代弁する南アジア諸国代表は「保護区はブータン固有の領土。過去に中国側が領有権を主張したことはない」と反論した。





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| 歴代中華帝国対外侵略史 | 21時28分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑

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