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『甲陽軍鑑』に見る「乱妨取り」の実態

敵地または中立地帯でモノやヒトを掠奪することを「乱妨取り」または「乱取り」といいますが、稀に味方に対して行われることもありました(例.元寇時の鎌倉武士たちによる博多での掠奪)。 


乱妨取りで掠奪したモノやヒトは、掠奪した人の所有物になったので、戦闘そっちのけで掠奪に狂奔する兵士たちも多数存在しました(絶対数からいえば、掠奪目当ての兵の方が多かったと思われます)。


乱妨取りが生き生きと描かれているのが、江戸時代初期に編纂された『甲陽軍鑑』です。 


信濃に進出した武田軍は、信越国境の関山(新潟県妙高市)を越え、春日山城近くまで侵攻し、村々に火を放ち、どさくさに紛れて女こどもを乱取りし、その人々を甲斐に連行して、自分の下人にした。 

この作戦で武田軍は越後を占領こそしなかったが、掠奪に大成果をあげた、それもみな信玄公の威光のお陰だ。 


乱妨取りされた人の身分は一般的に「下人」とされることが多く、下人は乱妨取りした者の所有物であり、所有者は下人を自由に使役したり売買したりすることができたので、これは奴隷といって良い存在です。 


『甲陽軍鑑』には雑兵たちの乱取りを非難する記述があるにはあります。 

「乱取りばかりにふけっており、人を討つという気持ちがまったくない。」 


しかし、これは戦闘そっちのけで乱妨取りに熱中するのはよろしくない、と言っているのであって、乱妨取りそのものを否定しているわけではありません。 


実際、1590年の小田原北条氏との戦いの前に徳川家康が制定した軍法にも、「下知なくして、男女を乱取りしてはならない」というものがあります。 


これは裏を返せば、下知があれば男女を乱取りしても良いということです。 





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| 日本史 | 21時08分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑















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