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匈奴・西域侵攻 その6 ~漢衰退、西域を放棄~

 74年、左谷蠡王率いる北匈奴軍2万が西域に進攻し、車師後部を回復した。また、カラシャフル、クチャが漢の支配に抗して蜂起し、西域都護を殺害した。


 77年、漢軍がハミから退去し、代って北匈奴が同地に兵を配置した。これにより、西域諸国は漢の支配から脱却した。


 89年、漢軍8,000が南匈奴軍3万とともに、鮮卑の攻勢により弱体化した北匈奴へ侵攻し、稽落山においてその主力を大破して、13,000人を殺害し、20余万人を連行した。


 この戦いの結果、北匈奴の弱体化は決定的となり、続く90年、91年にも漢と南匈奴に敗れ、モンゴル高原を放棄して西走した。そして、モンゴル高原には北匈奴に代って鮮卑が入った。


 91年、漢がクチャに西域都護を置き、94年、漢軍と西域8か国の兵7万がカラシャフルに侵攻し、王を殺害して、元孟を王位に就けた。この結果として、パミール以東の西域諸国が漢に服属した。


 ところが、漢の中央政府において西域放棄論が台頭し、107年、西域都護を廃止したため、再び北匈奴がこの地域における勢力を回復させた。すると漢はまたもや西域に侵入して、北匈奴と抗争を繰り広げることになったが、135年、北匈奴の呼衍王が車師後国を漢から奪回して以降、西域における漢の勢力は衰え、以後漢そのものが滅亡するまで回復することもなく、西域諸国は漢の支配から脱却した。



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| 歴代中華帝国対外侵略史 | 11時06分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑















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