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第20武装SS擲弾兵師団『エストニア第1』 ~エストニア占領 その2~

1941年6月、ドイツ軍がバルバロッサ作戦により快進撃を続けてエストニアに到達した時、エストニアの人々はドイツ軍を「解放者」として歓迎し、森林地帯を拠点としていた反ソ武装勢力『森の兄弟たち』も、ここぞとばかりにロシア人、共産党員やソ連関連施設に対する襲撃を活発化させた。


「解放者」として歓迎された当のドイツにはエストニアを独立させるつもりはさらさらなく、ドイツの一地方として取り扱ったが、それでもソ連よりも「温情的」であったため、反独ゲリラ活動などは殆ど起らず、8月にドイツ北方軍集団がバルト三国人の義勇兵の徴募を始めると、多くの人々が応募し、主としてドイツ占領地域における治安維持活動に従事した。


1944年1月、ソ連軍がエストニア国境にまで迫ると、ドイツ北方軍集団は分散配置されていたエストニア人義勇兵たちを集約し、新規の募兵と合せて第20武装SS擲弾兵師団『エストニア第1』を編成した。その中には、精鋭として知られる第5SS装甲師団『ヴィーキング』に属していたエストニア人大隊やフィンランド軍第200歩兵連隊(エストニア人で編成)が含まれていた。


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2~8月、『エストニア第1』はナルヴァの戦い、タンネンベルク線の防衛戦でソ連軍と激しく戦ったが、北方軍集団が総崩れとなり、9月、ヒトラーは北方軍集団のエストニアからの撤退を許可した。


この時、『エストニア第1』の将兵の多くがエストニアへの残留を希望、ドイツ軍もこれを許可したため、『エストニア第1』は一気に弱体化し、再編成のためドイツ本土へ後退した。


1945年3月、『エストニア第1』はオーデル・ナイセ線の防衛戦に参加した後、4月、西側連合軍へ投降すべくゴルトベルクから西方へ向かったが、ライヒェンベルク付近の山地でソ連軍に包囲されて降伏した。



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| ソ連・ロシアの侵略と圧政 | 22時46分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑















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