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朝鮮賊の満州侵入 その3 ~朝鮮人、大挙して満州へ侵入~

 定界碑の設置と琿春協領による管理強化によって、朝鮮賊の満州への侵入は止んだ。しかし、清がアヘン戦争で敗れ、太平天国革命が始まる頃から、再び朝鮮賊の侵入が始まる。


 1847年8月、咸鏡道鏡城府防垣鎮卒宋得哲とその女婿金光云等が満州に侵入し、満人1人を殺害して物資を強奪した。

 1860年8月、朝鮮人明徳成、鄭允化等が満州に侵入して旗兵を殺害。


 そして1867年頃から、李氏朝鮮の悪政と飢饉を原因として、主として咸鏡道の朝鮮人が大量に満州へ侵入し、現地の土地を勝手に占拠して開墾し始めている。


 1883年4月、吉林琿春招墾総局と敦化県が慶源・会寧・鐘城・隠城府に対し、図們江以北・以西に侵入して土地を占拠開墾している朝鮮人の刷還を要求したところ、7月、李氏朝鮮は「其の所墾の土地は土門・豆満両江の間にして即ち土門江の南なり」と称して、図們江以北の「領有権」を主張した。


 1889年7月19日、鐘城・会寧府が吉林において占墾する朝鮮人から徴税していたため、直隷総督(直隷省長官、文正二品)李鴻章がこれを禁ずるよう朝鮮に命じ、朝鮮はこれを受諾している。


 1890年7月14日、清が占墾朝鮮農民に対して辮髪させ、清の戸籍に編入していることを、朝鮮督弁交渉通商事務閔種黙が清総理交渉通商事宜袁世凱に「不当」としてやめるよう要求したものの、袁世凱は、1881年に総理各国事務衙門より督弁交渉通商事務金允植に占墾朝鮮人の刷還を命令したにもかかわらず、朝鮮が未だ刷還しないため実施したものであるから停止不可と回答している。


 清が義和団の乱に敗れて間もない1902年、李氏朝鮮が図們江北を奪取すべく李範允を「北辺間島管理使」に任命して図們江北へ派遣、李範允は「着任」すると、占墾朝鮮人から税を徴収し、「自衛団」や「私砲隊」を組織して武装し、清の官吏の職務遂行を妨害して満人や漢人を殺害し暴動を起したため、吉強軍の討伐を受け、李範允は大敗して逃亡した。こうして、李氏朝鮮による図們江北侵奪企図は失敗に終った。



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| 歴代朝鮮対外侵略史 | 00時41分 | comments:0 | trackbacks(-) | TOP↑















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